恋はいつでも
木島の手が吉野の頬に軽く触れた。長い指先から伝わるのは彼の体温。今は少し冷たい指先だが、その手の本当の熱さもまた、吉野は知っている。
二人の距離は徐々に縮まり、比例して唇も近づく。気がつくと吉野の身体はソファの端に追い詰められ、肘掛に頭がついてしまうほどだ。いつの間にやら押し倒されたかっこうになって、真上から木島の端整な顔が吉野を見下ろしていた。
「…本当だ」
辛うじて木島の言葉に答えたものの、魔法をかけられたかのように吉野は動けなかった。彼の唇が自分に向って降りてくることは見えていたが、拒めない――拒まない。二つの唇が重なるその瞬間を、思考とは裏腹に身体は待っているのか。
「すみません、ちょっと…」
ふわりと二人の間で空気が動き、視界が開けた。口元に両手の平を押し当て、木島は慌てて吉野から離れるや否や、居間から飛び出して行った。
ドアの開閉する音。多分、トイレのドアだ。
たっぷり時間をかけて吉野を押し倒しにかかる際に、ずっと下向き加減だったため、アルコールによる不快感が復活し吐き気を催したのだろう。
「ぷっ」
身体を起こして座りなおした吉野は、思わず吹き出す。笑い声がそれに続いた。近づいてきた木島の煌煌しい表情と、口を押さえて居間から飛び出して行った姿のギャップがどうにもおかしかった。
しばらくして木島が戻ってきた。今度は手のひらではなく手の甲で口元を押さえている。顔色は赤い。嘔吐する際に息んだせいか、それともバツの悪さによるものか。おそらくどちらもだろうが、表情から見るに後者が勝っている。
「水は要るかい?」
「お願いします」
さっきまで部屋に充満していた甘い雰囲気は消えた。
木島はソファの背もたれに頭を乗せ、目を閉じていた。吉野が水の入ったコップを差し出すと、薄く目を開けて「すみません」と受け取る。それに続く吉野の「少し横になったら」と言う言葉。つい十分か十五分前にも同様のやり取りをした。雰囲気にまたのまれて流されることを警戒した吉野は、木島が横たわらなくても隣には座るまいと思っていたが、今度は木島もおとなしく従って、ソファに身を横たえた。吉野はテーブルの脇にそのまま腰を下ろした。
「…本当、かっこ悪い」
情けない表情を隠そうとしてか、腕で目を覆って木島が呟く。
「そうか? いつも完璧な木島の、普通のサラリーマン的なところが見えて新鮮だったけど?」
彼の落ち込み具合に、吉野はフォローを入れた。本当は「面白かった」と言いたいところを「新鮮だった」に置き換えた。
「完璧なんかじゃないですよ、俺。でも吉野さんの前ではそうありたいと思っていたのにな」
「なんだ、それ?」
腕を少しずらして、木島が吉野を見た。
「『年下』って言うハンデが最初からついているからです」
木島はErebosで吉野とオーナーの奥平が交わしていた会話を漏れ聞いたと話した。初めて出会ったあの日のことである。決して盗み聞きしていたわけではなく、声をかけようと近づいた時に吉野の「年下は趣味じゃない」発言が耳に入ったのだそうだ。いきなり気勢を殺がれた形になったと木島は笑った。
木島との付き合いを勧める奥平の言葉にも反応が鈍く、「これはダメかな」と諦めながら隣に座ったら、会話もアルコールも楽しく進んだ上に、一晩一緒に過ごすことになって良い気持ちで朝を迎えられた。それほど年下云々に拘っていないのかと思い直し、一度きりの付き合いで済ませる気はなかったが、連絡先を聞いても教えてくれず吉野の側にまったくその気が見られない。週明けすぐに同じ会社の社員として再会した時は運命を感じたものの、まるで何事もなかったかのように会社でのスタンスを逸脱しない様子が遣る瀬無かったと木島は言った。
「それでオクケンさんにリサーチしたんです。吉野さんは本当のところどうなのかって」
『みっちゃんは身も心も預けてしまえる頼りがいのあるタイプが良いのさ。今までずっと父親代わりしてきて、無自覚に疲れてんだよ。年下がまったくダメとかってわけじゃないはず。だいたいこの前失恋した相手は十近くも年下だったし、趣味じゃないも何もないっての』
オクケンこと奥平が、吉野の脳裏で「あかんべぇ」をして見せる。
――あんの、おしゃべり。何言ってくれてんだ、まったく。
「だから、こんな情けない姿は絶対見せたくなかった」
そう言うと木島は再び、腕で目を隠してしまった。その仕草が妙に子供っぽく見える。
木島は無意識に自分の見せ方をよく知っている。情けないと本人が言うほどには他人の目には情けなく映らず、むしろ吉野の母性、もとい父性を刺激した。緩急のついた魅力が、ますます人をひきつけるタイプなのだ。
「別に俺は相手に完璧を求めてるわけじゃない。どこか抜けてる方が親しみって湧くだろう?」
吉野は一般論として言ったつもりだった。しかしそれは別の意味にとられなくもない。事実、すぐに木島は反応し、半身を起こした。
「それは、少しは可能性があるってことですか?」
「あくまでも一般論だ、一般論」
慌てて打ち消す吉野を、木島は嬉しげに見つめている。
吉野はどうして木島が自分に興味を持つのかわからなかった。十人並みの容姿に十人並みの体躯、家庭を持っていないせいか若く見られるが、年相応に近眼に老眼が混じり始め、髪には白いものもチラホラしている。目を引く特徴などどこにも見当たらない。身体の相性だって特別良かったわけでもなく、それこそごく普通のセックスだった――心地良かったことは認めるが、それだとて終始リードをとっていた木島の『功績』によるものだ。
「こんなオヤジのどこがいいのやら」
思ったことが呟きとして零れた。
「吉野さんは自分が思っているほどオヤジじゃないですよ。それに好きになるのに理由なんてない」
木島は身体を起こした。
「今夜はかっこ悪いところを見せて恥ずかしかったけど、吉野さんが少しは俺を意識してくれていることがわかったことは収穫だったかな」
「木島?」
「さっきも、それから最初の夜も、吉野さんは拒まなかった。一度目は成り行きで流されたのだとしても、今夜はそうじゃない。違いますか?」
情けなさはすっかり鳴りを潜め、いつもの木島に戻っている。吉野はため息をついた。
「暗示をかけるなよ」
「ここでキスすれば、すぐにかかってくれそうなんだけどな」
「ゲロ臭いキスは嫌だね」
吉野のその答えに木島が笑い出した。その大らかな笑い声につられて、吉野も笑った。
木島の言うとおり、彼を意識していたと吉野は自覚せざるを得ない。考えないようにしていたと思い当たる。それが恋愛に発展するかどうかはまだわからないし、今さら恋愛なんて面倒くさい…と言う気持ちもある。
ただ笑みの止まない空間に身を委ねながら、吉野は心の底に熱く灯る、表現出来ない何かを確かに感じていて、それを無理に消そうとは考えなかった。