退屈な天使たち
三十センチほどの出っ張りの上に立った少女は、息を切らすわけでもなく言った。私は本来の目的を他者に促されたことに少々の苛立ちを感じたが、世界の秩序は神が予め定めた結果だというライプニッツの唱えを暗唱し、柵に手をかけた。
するとまた突風が私を襲った。目に入った砂埃のせいで瞬きを何度も強制させられた。そして眼孔内の異物を排除するために、一気に涙腺がゆるみ出した。
「あなたの行動は無駄ばかりね」
目の前の少女は、壊れたミルク飲み人形のように何度も瞬きを繰り返す私を見てケラケラと笑い、パチンと風船を弾けさせた。
「早く行動を開始しないと、日が暮れてしまうわよ」
実際、空は相変わらず曇っていたが、その重苦しさは微妙に陰鬱さを増していた。しかし塗り替え作業をするにあたって、例え真夜中であろうが雨が降っていようが天候は全く関係の無い話しだ。
「ちょっと待って」
再び私が鉄柵に手をかけると、背後で声がした。対話の対象は前方ばかりと思っていた私は、不意を突かれて振り向いた。
いつからそこに居たのだろうか? すぐ側にソフトクリームを手に持った少女が佇んでいた。墨を塗り込んだかの様な黒髪は真っ直ぐに腰まで伸びており、目鼻立ちは小さく日本人形を連想させた。向かいのビルの少女と同じ制服を着ていたが、これは即ち私と同じ高校に通っているということを意味する。しかし、彼女の顔も見覚えがなかった。
「まるでお母さんに無理矢理手を引かれる子供みたいね。遅くまで外で遊んでいたものだから、叱られたのかしら? それとも欲しいオモチャを買って貰えなかったの?」
少女はペロペロとソフトクリームを舐めながら、子供に接するような優麗な口調で言った。しかし私は門限など破った事はないし、欲しい物を買って貰えなかったからと言って母親を煩わせた事もない。この少女の云わんとすることがわからなかった。
「あなたのその格好よ。両手で柵を掴んで、上半身だけこちらを向いているでしょう? だから、だだをこねる子供に見えたの」
少女は私の疑問を察したのか、クスりと笑い一歩私へと近づいた。ほんの数十センチ距離が縮まっただけなのに、私の心の中にはこの曇った空と同じ威圧感が生まれた。
「歴史の改竄なんて、馬鹿馬鹿しい事よ。止めておいた方が良いわ」
少女の顔からは微妙に笑みが消失したが、ソフトクリームは舐め続けていた。桜色の唇にうっすらとクリームが付いていた。
「改竄とは人聞きの悪い呼び方ね。この子は、自分の歴史を自ら変更しようとしているのよ? 何の問題もないじゃない」
向かいのビルの少女が風船を作りながら言った。風船は直径十センチまで膨らみ、パチンと弾け少女の口を塞いだ。
「いいえ、改竄以外の何物でもないわ。そんな事をしてはだめ」
背後の少女は、向かいのビルの少女を敢えて無視するかのように私に言った。
「だから、改竄という言い方はやめなさいよ。これは神聖な儀式なんだから」
口に張り付いたガムを剥がしながら、向かいのビルの少女はそう言った。しかし、神聖な儀式という表現は間違っている。これは清らかでもなければ、神懸かり的な行為でもない。単なる歴史の塗り替え作業だ。それは時計屋の主が、壊れた腕時計を修理するのと何ら変わりのないことなのだ。
「神聖な儀式ですって? 今時そんな事が本当に有り得るとでも思っているの? それはあなたの盲信に過ぎないわ」
背後の少女が少しだけ語気を強めると、向かいのビルの少女は楽しそうにケラケラと笑い出した。
「あなたも改竄という言葉を使うくらいだから、満更信じていないわけでもないのでしょう? 原書なくして改竄は有り得ないもの」
「それは……」
私は二人の少女を交互に見比べた。突然現れたこの二人は、いったい何を論じているのだろうか? いつだって世界は私の周りで、私とは無関係に騒いでいるだけ。この二人はその象徴的存在だ。
「とにかく……」
向かいのビルの少女は、一端風船を作るために言葉を切り、そして私に向かってこう言った。
「あなたが試してみたら?」
4
私は他人に促されるまでもなく、その行為に憧れている。そして確信もしている。だから試すまでもない事なのだ。
さようなら、そしてこんにちは。確かそんな曲があったはずだが、この二人は知っているだろうか? 問いかけたら教えてくれるだろうか?
「でも、僅か一七年間の歴史なんて、わざわざ塗り替える必要があるのかしら?」
背後の少女がアイスクリームを舐めながら言った。溶け出したアイスクリームが、自分の手を汚していることに気付いているのだろうか?
「気に入らなければ塗り替えるべきだわ。そう、何度でも。さあ、こっちへ来て」
一瞬、私の鉄柵を持つ手が緩んだが、向かいのビルの少女の言葉で再び力がこもった。手を緩めたり握りしめたりの反復動作で、剥がれ掛かった鉄柵のペンキが大量に指の隙間に入り込んだ。その結果、私の両手は赤茶色に変色しかかっていた。この鉄柵も私と同様に塗り直した方が良いようだ。
「あ、指がクリームでベトベト……」
背後の少女は、ようやく自分の手元に気付いたようだ。
「コーンをかじり過ぎたのね。何事も計画性を以て行動に移さないと、そういう結果になるのよ。ねえ?」
向かいのビルの少女は、茶々を入れつつ私に同意を求めてきた。これは私に対する皮肉だろうか? 無作為にビルを選択したとはいえ、計画ならば綿密に企てた。唯一の誤算が、この二人の少女たちだった。
「あなたの方こそ、口の回りがガムでベタベタじゃないの」
「自分を棚に上げるのは良くないわ。あなたの口の回りもクリームだらけじゃない」
「指を舐めると、お母さんによく叱られたわ」
私は授業中に指名されて答えに詰まった時のように俯き、会話が落ち着くのを待った。
「あなたの髪の色は校則に反します」
「あなたこそ、髪が長すぎるんじゃないかしら?」
「ガムの噛み方もわからないあなたに言われたくないわ」
「そういう事は手を洗ってから言ってほしいわね」
「あなたこそ口の回りにガムがついているわよ」
「ほら、そう言っている間にクリームが……」
「本当に口うるさい人ね」
「あなたこそ」
「そっくりそのままあなたに返すわ」
私は二人のやり取りを聞いている内に、偏頭痛に悩まされ始めていた。いつだって世界は私の周りで、私とは無関係に騒いでいるだけ。この二人はその象徴的存在だ。
「とにかく、早くこっちへおいでよ」
「だめ、行ってはだめ」
「早く。もうすぐ日が暮れちゃう」
「天候は関係ないわ。大切なのは……」
「綿菓子の世界を見せてあげる」
「そんな世界は存在しない」
「あなたが悲しい時に見る風景よ」
「悲しいのはこの世界自体」
「さあ、こっちへ……」
「たかが一七年の歴史なんて……」
「悲しい風景はもう見たくないでしょう?」
「まるでだだをこねる子供みたい……」
「そう、これは神聖な儀式よ……」
「私には叱られた子供にしか見えない……」
「あなたの行動は無駄ばかりね」