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伊藤ヘルツ
伊藤ヘルツ
novelistID. 22701
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退屈な天使たち

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コンクリートが剥き出しになった壁には、そこかしこに大小様々なひび割れが走っていた。壁の上部を見上げ適当に目に付いた亀裂をアミダクジのように下方へ辿ると、その先端へ行き着くまでに八本の新たな亀裂を発見した。これらの亀裂はこれからも進行し、いつかは一本の複雑な模様に変貌を遂げるだろう。
 私は階段を一歩一歩確実に上がりながら、そんな幾何学模様を形成しつつある壁を目で追っていた。

 1

 無作為に選択したビルの中は、その外観と同様に老朽化が激しかった。私の通う学校と同じリノリウムの床には綿埃が薄積しており、階段を一歩踏みしめる度にそれらは逃げるように浮動した。
 時折頭上から、キラキラと輝く小さな砂粒が落ちてきた。私は一瞬だけその様を美麗に感じたが、それが単なる塵だとわかるや否や興味を失った。髪や制服にとまった塵を丹念に祓いつつ、壁の亀裂が形成する幾何学模様だけを目で追うことにした。
 何時からか私自身の内部にも似たような亀裂が生まれていた。その発生の具体的な起因はわからないが、無数の亀裂が生じていることだけは確かだった。これが病なのか、それとも生育における必然的な現象なのかは私にはわからないが、ただ一つだけ断言できる事と言えば、ここが今の私に最も相応しい場所だという事だった。そしてその確信は階を増す毎に強まった。
 私はこれから、一七年の凡俗な歴史を塗り替えるつもりでいる。或いはそれが文字や数式なのであれば、書き換えると表現すべきだろうか? 歴史の構築には気の遠くなるような時間を要するが、変更作業は僅か数秒で完了する。その事に気付くまでに、一七年も掛かってしまったのだ。
 目で追っていた亀裂の果てに、鉄製の扉が見えた。それはまるで、行き止まりに迷い込んでしまい立ち竦む老人のように見窄らしかった。表面を覆っているブルーのペンキが無惨に剥脱し、そこかしこに錆び付いた地肌を見せていたからだ。
 扉上部の小さな窓には擦り潰した綿菓子のような埃がこびり付いていたが、指が汚れてしまうのを承知でそれを拭った。
 すると、ぼんやりと殺風景な風景が現れた。そしてそれは悲しい気分の時に見る風景に似ていた。
 歪んだ世界。海底のようにゆっくりと揺らめいているようにも見えるが、陽炎のように小刻みに震えているようにも見える。霞んでいる部分と鮮明な部分の混在。それはきっと曇った窓ガラスのせいではなく、この扉の向こう側が綿菓子の世界だからだ。

 2

 壊れかけたボイラーの音が聞こえた。
 屋上に出た私は、瞬間的にこのビルのボイラー室らしき場所を探した。しかし、その音が遠方から聞こえてきているという事実に気付き、照れ隠し的な意味合いを込めてそのまま辺りを見回す振りをした。私以外に誰もいないこの場所で、私は一人芝居でもしているような気分になりおかしくなった。
 どうせ芝居ならば、BGMも欲しいものだ。私はボイラーの音に規則性を探し始めた。三拍子だろうか? それとも四拍子だろうか? シュトックハウゼンの『ドクターK六重奏』という曲を思い出した。確信的認識はやがて不安に晒され、幾重にも重なった不協和音となる。そして巨大な固まりへと変貌し、ビルの頂点へ鎮座するのだ。
 地上からビルを見上げた時は高さこそあれさほど大きくは感じなかったが、屋上へ出てみると自分が子猫になってしまったのではないかと錯覚するくらい広壮な印象を受けた。その印象は、遮蔽物がまったく存在していない事実に起因しているのだろう。
 点在する変色した空き缶や紙切れ。私を遠巻きに包囲している錆びた鉄柵。その鉄柵の向こうには、このビルと似たような生死不明のビルが見える。右を見ても、左を見ても、前も、後ろも同じ光景。それらが、私の平衡感覚を阻害する。
 上を見上げると、のし掛かるような曇り空が私を威圧した。もしも雨が降り出したら、ここはプールになるのではないだろうか? こんな広いプールを独占できるのならば、歴史の塗り替えは延期しても構わない。しかし平衡感覚の欠如が著しい私が、遊泳中に迷子になってしまうという危険性も十分考えられる。私は一瞬、この巨大な水の世界に閉じ込められた状況を想像した。水の中からあの空を見上げると、やはり綿菓子のように見えるのだろうか?
 突然一陣の風が吹いた。私は情景を振り払いつつ若干前屈みになり、両手で髪と制服のスカートを押さえ、その悪戯好きな風をかわした。風は私を翻弄し損ねた腹いせに、空き缶や新聞紙を蹴散らし去って行った。
「何をしているの?」
 私が髪や制服についた砂埃を祓っていると、どこからか声がした。透き通るような細い声だったがどこか芯の強さが感じられ、一瞬母親に悪戯を窘められた時の事を思い出した。
「今あなたが取っている行動は、これからあなたが行おうとしている行動と矛盾するのではないかしら?」
 辺りを見回してみると、向かいのビルの屋上に私と同じ制服を着た少女が立っていた。髪は肩にかかる寸前で綺麗に切り揃えられており、栗色のそれは曇り空の下では妙に鮮やかに見えた。
 まさかこんな場所に、私以外の誰かがいるとは思わなかった。しかも同じ学校の生徒が。彼女も歴史の塗り替えに訪れたのだろうか? しばらく動揺を隠せずに少女を凝視していたが、少女は微動だにしなかった。
「今あなたが取っている行動は、これからあなたが行おうとしている行動と矛盾するのではないかしら?」
 少女は、先程と何ら変わりのない口調で繰り返した。私は可能な限り間近で少女を確認するために、鉄柵まで近づく事にした。どの道歴史を塗り替えるためには、あの鉄柵を乗り越えなければならないのだから。

 3

 私たちは、ボンヤリと信号を待つ迷い子のように向かい合い立っていた。少女はガムを噛んでおり、時折風船を作ってはパチンと弾けさせ、その度に口の周りに張り付いたガムを舌先で器用に剥がしていた。
 このビルと向かいのビルは細い路地を挟んでいるだけなので、私と少女の距離は二メートルくらいに思えた。男性ならば飛び移る事が出来そうだ。
 少女の顔はハッキリと見て取れたが、見覚えはなかった。ウサギのようにあどけない顔を心持ち傾げ、細い顎でガムを噛み続けていた。声の印象からは上級生を想定していたが、多分下級生だろう。
「先程あなたが取っていた行動の意味は?」
 間近で聞いた少女の声は、確かに芯の強さが感じられたが、私は少女の存在が未だに信じられないでいた。
「あなたは、自らの歴史を塗り替えようとしているわね? それなのに、服や髪についた埃を気にしていた」
 少女は見透かしたように目を細め、再び風船を作った。確かに矛盾している。これから歴史を塗り替えようとする人間が、身なりなど気にするはずがない。私は心の中で苦笑した。
「迷夢は捨象した方が良いということよ」
 外見からは似つかわしくない言葉で言い捨てると、少女は目の前の柵に飛びついた。そして片足を柵の上に掛け、軽々と乗り越えてしまった。
「さあ、あなたも柵を乗り越えるのよ」
作品名:退屈な天使たち 作家名:伊藤ヘルツ