辺境
「あら? どしたの、お前」
ノックも挨拶も無く、扉は開かれた。建て付けが悪かった神官室の扉は先日修理したばかりで、軋みもせず静かに開く。不作法な人の声だけがいきなり聞こえて、ジョバンニは視線を声の主に送った。ジョバンニと目が合い、アーサーは声を弾ませる。
「今日すっぴんじゃーん」
おどけて言って、部屋に踏み込んだ。勝手知ったる足取りで、真っ直ぐソファに向かう。座って低くなった目線で、ジョバンニを見上げた。
見つめる。
思わず、にやける。
「……すっぴんって何」
気持ち悪くにやけたアーサーの顔から目を反らし、ジョバンニは低い声で聞いた。
「眼鏡かけてないってこと」
「意味違うだろ、それ」
「そう? 結構顔変わる気するんだけど」
尚もジョバンニの横顔を見つめ続けて、アーサーは答えた。
今日のジョバンニは裸眼だった。仕事中、それから読書中は必ずかけているはずの眼鏡を外している。絵に描いたような鮮やかな碧眼を晒して、礼拝に使う香炉の手入れをしていた。それは細やかな注意が必要な作業だ。
普段の彼だったら、絶対に眼鏡をかけてやっている。
「どうしたんだよ、眼鏡」
「盗まれた」
「はあ? 誰に」
「猫」
アーサーの質問に簡潔に答えて、ジョバンニは更に言葉を続けようと手を止めた。
「昨日、猫が泊まっていったんだよ。ここしばらく具合が悪いみたいで、薬取りに来ててね。時間も遅かったし、帰る途中で倒れられても困るし、一晩泊めたんだ。で、朝起きてみたら、眼鏡と一緒に消えてた」
「相変わらず手癖悪いのな」
泥棒癖のある猫は、目の前に他人の持ち物があると条件反射でかすめ取ってしまう。孤児で、愛玩種族として差別されてきた猫は、盗みを働くことでしか生きられなかったのだ。ここ最近やっと真っ当な生き方に慣れてきたようだとジョバンニは思っていたが、油断するとすぐこれだ。
「お前の眼鏡、高級そうだもんなあ」
「細工してあるからね」
「かけてない方が俺は好きだけど」
「ああそう」
アーサーのあからさまな好意を、ジョバンニは素っ気なく受け流した。
前々から事あるごとにジョバンニから眼鏡を外させようとしていたアーサーは当然、"ずっぴん"状態のジョバンニの顔が好きだ。素のままの瞳の色と、人がわざと造り出した芸術品のようなジョバンニの顔が好きだった。計算で無ければ、こんなに整った顔立ちが自然と生まれ出るだろうかと疑いたくなる。金髪碧眼、細身の長身、白い肌と、美青年の要素も揃っている。――そこらの女よりもよっぽど綺麗で。
「大体俺、眼鏡かけると人って中性的になると思うんだよな」
話は終わりだとジョバンニが閉口したにも関わらず、アーサーは止まらない。
「女がかけるとエリートウーマンみてぇで格好良くなるし、男がかけると繊細そうに見えねぇ? その中性的な感じが女共は好きなんだろうけど、俺はお前の女顔が好きだから、眼鏡無い方が良い」
「気持ち悪い」
明らかに特別な感情を込めて口説きにかかるアーサーを、ばっさりとジョバンニは切り捨てた。
「あんまり言うと追い出すよ」
忌々しげに呟く。
彼の一番の親友は、セックスをするのに性別の壁は存在しないという独自の理論を持っている。別にそれをジョバンニは否定しないが、自分に無理強いしてくる悪癖には辟易していた。自分には興味が無い、気持ち悪い、生理的に受け付けないと何度言っても、アーサーは改善しない。まるで芸術品の様だとジョバンニの顔に異様に惚れ込み、どれだけ罵られようとへこたれない。また、本当に心から彼が好きで、近づこうとするのだ。
あんまりにもしつこいので、だんだんとジョバンニも馬鹿らしくなってきている。ほぼ挨拶代わりになりつつある「好き」という告白に、アーサーとはそういう鳴き声をする生き物なのだと思うようにしていた。――別に、彼自身の人柄が嫌いというわけでは無いのだから。
ジョバンニは作業机から立ち上がると、暖炉に近づいた。音を立てて鳴いている薬缶を暖炉から上げると、珈琲豆が入ってる缶を棚から取りだす。ついでに、コーヒーカップも。
その数は、二つ。
「どうせ君も飲むんだろ?」
「もちろん」
アーサーは返事だけを返し、追い出す気ねぇだろ、とは、口に出さなかった。