千夜の夢
3.2人でお茶を
あのパーティーの夜、結局士は最後まで戻らなくて、オレと千笑さんは他愛も無い話をのんびりと交わした。間違いなく、アレが人生で一番よく喋った日だ。
―だって千笑さんてば子供みたいに、質問ばっかするからさ・・・。
「ピアノを弾くんですか?!」
少女のような瞳をより一層キラキラと輝かせて言った。家族の事や、学校の事、休日の過ごし方や好きな食べ物の話まで、千笑は余すところなく全ての疑問や好奇心を冴にぶつけた。その興味は尽きることなく、冴の口は動きっぱなしだ。珍しく。何か習い事や部活はしているのか?と尋ねられ、子供の頃からピアノを好んで弾いていることを答える。
「私も小さな頃からヴィオラを弾いています!母がクラシックが好きだったもので」
ふと彼女が立ち上がり、なにやら荷物を漁りだした。
―あぁ、ヴィオラのケースだ。
「一緒に演奏しませんか?」
にっこりと微笑みケースからビオラを出した。
「い、っしょにって・・・今、ですか?」
―あぁ、都合よく部屋の隅にアップライトのピアノがあるのはきっと・・・。
もちろん士のお計らいである。
「えぇ。ホールまでは離れてますから、きっと音は届きませんよ。大丈夫です」
―いや、問題はそこではなく・・・。
しかし、彼女の笑顔を前に首を横には到底振れない。
「・・・じゃあ、1曲だけ・・・」
冴は上着をソファに脱ぎ捨て、袖口のボタンを外して捲り上げた。
「まるでジャズピアニストですね」
嬉しそうに千笑が言った。
「・・・弾くのは・・・・・・ジャズが一番好きで・・・・」
少し恥ずかしそうに小さくこぼす。キョウダイ(特に姉)には、冴とジャズが結びつかないとからかわれるからだ。
「私も、聞くのはジャズピアノが一番好きですよ。・・・あ!」
急にしゃがみこんでヴィオラのケースを覗き込む。
「・・・何か?」
冴もつられるようにして覗き込んだ。
―ぁ、もしかして・・・。
「弓を忘れました・・・・・」
“どーしましょう?”という顔で冴を見る。堪えようとしたが咄嗟の笑いは隠せない。
「ぶ、・・・っはは!じゃあオレ一人でジャズ弾くよ。座って聴いてて」
笑って緊張がほぐれたのか、自然と口調が砕ける。それでも千笑は気にした様子は見せずに嬉しそうに笑った。
「はい!」
短い曲を何曲か弾き終えると、千笑がお茶でも飲もうと提案した。
「コーヒーならここでも淹れられますけど、他のものがよければ何か・・・」
千笑がキョロキョロしながら何か探している。
「いや、コーヒー好きだからコーヒーでいい。オレが淹れるよ」
冴は腕時計を外してカウンターに置き、小さなキッチンに立った。
「あ、ダメです!お客様にそんな事っ私がやりますから!」
慌てて駆け寄ってきた千笑をやんわりと制して作業を進める。
「オレが淹れたコーヒー飲んだら、他の奴が淹れたのは飲めなくなるよ」
自信満々の笑みで冴がカップを差し出した。面を食らいつつも千笑はカップを受け取り控えめに一口啜った。
「ぁれ?さっき自分で淹れた時よりも全然美味しいです!」
「ホラ、な」
ちょっと楽しそうに冴が微笑む。心底不思議そうに、そして本当に美味しそうにコーヒーを飲む彼女を、このままずっと見ていられたら、と思う。カップに底がある事を少し恨めしく思いながら、冴はいつの間にかまた眠っていた率と、その母親を交互に見やり、幸せを注ぎ足したコーヒーカップに唇を落とした。
あなたが少し機嫌を損ねても、オレの淹れるコーヒーさえあればまたすぐに笑ってくれたのに・・・今はこの香りが少し憎らしいくらいだよ。