篠原 求婚1
「ああ、それはわかるな。僕も、雪乃が居るのが当たり前になってる。」
抱きしめられて、一つの布団に入っている。本来は、それ以上の感情があるはずなのに
、僕にはない。自分から触れたいと思わない。でも、触れていて欲しいとは思っている。
生まれてからずっと、ほとんど離れたことがなかった。
「だから、あなたを頂くの。地球の科学技術で生存できなくなったら、そこからは、私が
オーバーホールして生かしてあげる。そうでないと、寂しいから。」
「物好きだよ、ほんと。手間がかかるだけなのにさ。」
「もういいから目を閉じなさい。」
「・・・おやすみ・・・」
「おやすみ。」
黒い子犬みたいな子供が親友の膝にいた。親友の遺伝子をきっちりと受け継いだ、その
顔は、そっくりそのままだった。
「不思議だわ。」
「そう? 嬉しいわ。私の子供が、ここにいるなんて。」
身体が弱くて、とても子供は産めないだろうと言われていた。だから、試験管で受精し
て試験管の羊水で子供は成長させた。
大好きだと思っていた相手から求婚されて、その子供まで設けた。幸せで幸せで、傍で
見ている自分ですら微笑むような空気を、親友は纏っていた。
それなのに、その幸せは三年で終わった。元々、弱い身体だった彼女が、子供を護るた
めに無理をした。自分を成形している分子の全てまで、力に変換して使ったからだ。
「・・・お願い・・・」
じわじわと消えていく命の灯火を感じながら、その姿を見守っていた。
「・・・護って・・この子から笑顔を奪わないで・・・この子を護って・・約束して・・
・」
最後の頼みを断れるほど冷たい付き合いではなかった。何が起こっているのか、子供に
はわからなかっただろう。母親の傍で、ふわりと微笑んでいた。
「わかった。護ってあげる。」
「・・・ありがとう・・・」
受理されて気が抜けた親友は、ほっと目を閉じて、その肉体を霧散させた。びっくりし
たように、子供は大声で泣き出した。
あのときは、ああ、五月蠅い、ああ、煩わしいと引き受けたことを後悔した。すぐに、
父親が引き取りにきて、子供は連れ去られたが、子供には父親と暮らしていた記憶はない
。故意に父親が消してしまったらしかった。十年して、目の前に現れた子供は、大きくな
っていたけど、黒い子犬であることに違いはなかった。微笑む顔が親友の姿と重なった。
それから、少しずつ浸食されて、傍にあることが当たり前になった。五月蠅いと思って
いたのが、夢のようだ。
「長いこと、勝手してすいませんでした。」
部屋の入り口で、全員に向かって、頭を下げている人は、三ヶ月ぶりに職場に復帰した
直属の上司だ。
「とりあえず、周辺へのご挨拶と、アカデミーへ聴講に行くことだけはやってくれ。」
この部屋の室長が、苦笑して指示する。ここは、窓際というに相応しい職場で、本来な
ら第一線で活躍しているはずの人間が納まっている。
昨年騒がれた一連の騒ぎの首謀者とその仲間なので、マスコミやら他の支部から隠すた
めに閑職へと追いやられているのだ。
「アカデミーは、週三日ぐらいってことで、前川教授にお願いしました。」
「いっそ向こうへ、麟と行っちまえばよかったんだ。」
「橘さん、俺、そこのボケボケ若旦那と肩を並べて研究するのは断ります。」
「僕も、重箱の隅つつきの麟さんと一緒はいやですよ。・・・すいません、これから、少
しずつ動きますから・・・」
「いきなり喧嘩ふっかけて遊ばないでくれよ、三人とも。細野が困ってるだろ? 」
西野さんが、対応できなくて困っている俺の背中を叩いた。俺は、基本的に、この四人
の助手で、特に篠原さんのスケジュール管理を重点的にこなすように命じられている。
「ああ、冗談だからな、細野。篠原は天然で、麟は陰険に、そこのところで絡んで遊ぶ。
」
「あんた、俺のことを、そんなふうに思ってるんだな? 」
「事実だろ? 」
「まあ確かに陰険だよね? 麟さんは。・・・ところで、僕が療養している間に派手に動
いてたみたいだけど、その報告を聞こうじゃない? 」
篠原さんは、ニコニコと笑って、自分の席についた。
「細野? こいつ、まだ壊れているんじゃないのか? それとも、おまえ、間違った報告
をしたのか? 」
ちらりと、江河さんが俺を睨んで、席に着く。肩を震わせて、なりゆきを楽しんでいる
のは西野さんだ。
「私は別に報告はしていません。」
「うん、されてないよ。ただ、あの会議に出ていた人たちが、次々と、監査委員とかオン
ブズマンをやめているから調べただけだ。実際に、監査委員の鈴村さんから話もお聞きし
た。唐突に、自分の企業の株価が下落したそうで、委員の仕事どころじゃないって忙しそ
うだったよ。麟さん? 」
楽しそうに篠原さんが説明した。篠原さんを会議という名目で査問委員会並みの吊るし
上げをしたメンバーに対して、俺も憤慨はしていた。だが、鈴村さんたちとは、その後、
ちゃんと和解していることも知っている。
「余計なことばかりして、自分の足元を掬われたんだろ? 」
そして、そのメンバーに対して、江河さんたちが動いていたことも、俺は少しだけ知っ
ている。
「・・・ふーん、そうなんだ。」
「うるさいな、おまえが余計なことをするから、俺は忙しくて休暇も返上だったんだぞ。
それに対する謝罪は? 」
「麟さんが忙しくて穴あけてたアカデミーのほうへ借りは返すことにした。・・・僕、し
ばらく、麟さんのお父さんに拉致されそうだから、それで帳消し。」
「拉致? 」
「近々、学会があるっていうのに手伝いにも来ない薄情な息子が、どっかにいて、その友
人代表として、お手伝いしてくることに決定した。」
「あ? 」
「お礼は言わないよ。でも、ほどほどにしてね。」
「おまえが悪いんだから、俺も謝らないよ。」
ふたりして言いたい放題言い合って、それから笑い出した。そうなってから、橘室長が
、「働けよ、ごくつぶしどもっっ」 と、書類で、ふたりの頭を交互に叩いた。
「細野、このバカ二人を連れて、江河教授のところへ挨拶に行けっっ。それから、篠原は
家に返却して来いっっ。」
「はい。江河さんは、そこへ放置でいいんですか? 」
「ああ。麟、篠原を拉致される前に、おまえを献上する。それでいいだろ? 」
「しょうがない。それでいいですよ。・・・それから、おまえの復帰祝いは、金曜ぐらい
でいいのか? 」
まだ、身体が慣れていない篠原さんが、アカデミーの手伝いで本気を出すのは、まずい
から、橘室長は、その仕事を、元々、従事すべきだった人間に割り振った。江河さんも、
それには異存はないらしい。
「うん、それでいいよ。麟さんの蒸し鶏が食べたいな。」
「安上がりなもんを頼むなよ。なあ、麟、もっと豪勢なカニとか食べたいんだけど? 」
「俺、イタリアンがいい。」
「・・・橘さん、ジョン、誰の復帰祝いか、わかってないんじゃないのか? 」
「別にいいだろ? 篠原をダシにした宴会なんだからさ。」
当人の篠原さんは、「ああ、戻ってきた気がする。」と、笑っていた。晴れ晴れとした
顔をしているので、専属秘書の俺としてもうれしい。