たまごとハサミ
たまごとハサミ
弁当箱の中に、卵とハサミが入っていた。
勤めている小さなゲーム会社での昼休憩。折り畳みの机とパイプ椅子だけの簡素な休憩スペースで、俺は首をかしげた。
弁当の薄い楕円の蓋を開けると、手の平に収まるぐらいの小さなハサミと、スーパーで売ってる鶏卵が一つ、そのままごろりと入っている。
卵の底にはひびが入っていた。持ってひっくり返すと、ぺろんと殻が剥がれたところから柔い白身が覗いている。ゆで卵だ。
ハサミは刃先の丸っこい可愛らしいフォルムだ。俺がハサミで怪我をしないよう気を使ってくれたのだとしたら、二十五にもなった健康体の男がされるべき配慮じゃない。
この弁当を用意した千佳の意図が読めなかった。
千佳は俺の奥さんで、昨夜、彼女と初めて夫婦喧嘩をした。喧嘩というよりは千佳が俺を一方的に避けている形だ。それなのに、口を利かないような状況でも、今朝にはちゃんと弁当を作ってくれた。
しかし出勤中の電車で揺られながら、少し不安になった。同僚の話では、喧嘩中の弁当は散々らしい。生米びっしりだったり、海苔で「しね」と書かれていたり、イナゴオンリーだったり、離婚届や結婚指輪が入っていたりと、確実に呪いも詰まっていそうな弁当。
弁当を作ることで相手に罪悪感を抱かせておき、一気に奈落へと突き落す嫁の戦法か。いやいや、千佳に限ってそんなえぐい事するわけないと信じて、俺は彼女の弁当に賭けてみたわけだ。
蓋を開ける瞬間まで最悪なパターンをシュミレートしていただけに、今はかえって安心してしまった。そう、食べ物が入っていただけでも充分だ。卵から腐った臭いもしないわけだし。
安心とゆで卵だけでは腹がもたないので外で食べてくることにする。
鞄に仕舞おうとして、弁当箱の蓋に何か張り付いていることに気がついた。白い折り畳まれた紙がセロハンテープで貼り付けられている。
『ごめん、作れなかった。これで食べてきて』とマジックで書かれたメモ用紙に、千円札が一枚挟みこまれている。
なるほど、分からない。
分からないけど、千佳に弁当をつくる気はあった。でも作れなかった。だから昼食代を入れておいてくれた、そういうことだろう。
あまり深く考えずにハサミとゆで卵を鞄の中に放る。割れているので、ゆで卵はハンカチで包んでおく。昼を誘ってくれた同僚に、『やっぱオレも行くわ!』とメールを打ちながら、俺は会社を後にした。
駅付近の商店街で同僚二人と合流し、馴染みのラーメン屋で味噌ラーメンを注文した。ラーメンができるまで暇つぶしに先ほどのメモ紙をチョキチョキと切る。端を摘まんで広げると可愛らしいヒヨコになった。
可愛いもの好きの奥さんへのちょっとしたご機嫌取りだ。
同僚の話を聞きながら、ゆで卵の殻を剥いていく。アルバイト店員の目が気になったが、視界に入らないようにゆで卵を頬張った。
その日は定時で真っ直ぐ帰宅して昨夜のことを謝ったが、千佳は口を利いてくれなかった。会話として放った言葉が、独り言となって部屋に響くのが、妙に切ない。洗う必要は無いかもしれないけど、弁当箱を流しの脇に置いておいた。
翌朝、昼近くに目覚めると、壁時計の横に見覚えのない額縁がかかっていた。中には俺がラーメン屋で切ったあの切り絵が、青い台紙に飾られている。
卵の代わりに弁当箱の中へ入れたが、何で飾られているのだろう。また疑問が増えてしまった。文字が裏移りしているひよこを眺めながら自分を励ましていると、背中に温もりを感じた。千佳だ。
「あなた、切り絵得意なの?」
「得意じゃないけど、色々作れるよ」
宴会芸ぐらいにしかならない特技だと思っていたが、こんなところで役に立つとは。会話のきっかけになればと忍ばせたが、まさかこんなに効果を発揮するとは思わなかった。
それから千佳は切り絵を強請ってきた。休日ということもあり、甘えて急かす様子が可愛いので俺もついつい言われるがまま量産してしまう。広げると人が手を繋いで連なっているものや、お菓子の家のような童話調のポップなもの、時には毛の流れが感じられるほどリアルな馬まで、ちょっとしたレジャーランドになるまで切りまくった。
六畳の床一面が紙で踏み場もなくなった頃には日が暮れていて、いつもの俺たちの調子に戻っていた。千佳が弁当の話を切り出した。
「最初はね、包丁を入れようと思ったの」
「過激だね」
「でも、入らなくって」
「オレの弁当箱ちっちゃいもんな」
「で、ハサミがいいかなって思いついたんだ」
「思いついちゃったか。でもなんであのハサミだったんだ? 家にあるハサミ入れなかったんだ?」
電話台の横に文房具入れには、いつも世話になってるハサミがある。
「だって、家にハサミないと困るもの」
「え? じゃわざわざ新しいの買ったの?」
あんな短時間のどこにそんな暇があると心の中でツッコミながら、返事を待った。
「わざわざってわけじゃないけど……もう、いらないって思っちゃったのよ」
「え? 折角買ったのに?」
千佳がいらなくなる物を買ってくるのは珍しい。千佳は節約家で、安かったからという理由だけでは絶対買わない。必要なものには惜しみなく使うが、無駄な物にはとことん厳しい。
適切な説明が閃いたらしく、千佳の背後に電球マークが見えるほど輝かしく笑った。
「あなたはハサミだと思ってたみたいだけど、これ、赤ちゃん用の爪切りなのよ」
「ってことは……」
「そう、あの子の為に買ったの」
千佳は妊娠している。といってもまだ腹も全然膨らんでなくて、予定日なんて何ヶ月も先のことだった。この節約家が、しばらくお役目が回ってこない爪切りを思わず買ってしまうほど、楽しみにしていたのだ。けれど、一週間前、近所の子供との衝突で流れてしまった。喧嘩の理由はこれだ。
一週間経っても沈んで満足に食事を取ろうとしない千佳に、「また産めばいいじゃないか」と励ますつもりで、慰めるつもりで口に出してしまっていた。
「私のことを思って言ったのはわかるし、あなたが楽しみにしていてくれたこともわかってる。気持ちを切り替えないといけないこともわかってる。でも、『この子がダメでも次がある』それじゃあ、あの子が報われない。私の中でちゃんと死んでしまったんだって実感して、きちんと悲しんであげたかったの」
言ってくれれば良かったのに。別れを惜しむことを供養にするなら、伝えてくれれば、無理に励ましたりせず一緒に悲しんだのに。
人に頼らずが、付き合っている時からの口癖だった。こんな時ぐらい頼って欲しい。二人の問題なのだから尚更。俺は千佳のことが放って置けなくて結婚したんだ。
「オレのこともっと頼ってよ、千佳」
「じゃあ、お願いなんだけど、いいかな?」
「いいよ」
「供養するから聞いて欲しいの」
千佳がピンクのハンドバックの中からづるづると長い紙を取り出した。びっくり箱のバネの部分のように折りたたまれた紙が、びろびろ広がって扱い難そうだ。奮闘しながらなんとか形を整えている。
「お葬式をするわけにはいかないから、せめてお経あげたいなって思ってね」
「え? 読経できちゃうの?」