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りんみや 風花

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「・・・天国なんてものはさ・・・・」
 のんびりと、水平線が見える青空の下で、その人は、ゆっくりと口を開いた。もう、黒髪ではなくて、灰色というぐらいに白髪が交じってしまった、その人は、背を向けたまま、水平線を眺めている。健康のために、禁煙していたはずなのに、以前のように、スパスパと、紫煙を吐き出している。
「ええ、天国なんてものは、なに? 」
 そこで、止まってしまった言葉の先を促してみる。だが、けっして、続きが聞きたいわけではない。その人の声を聞きたいだけだ。だから、別に答えはいらない。
「・・・・どうかしたのか? ・・・」
「別に、逢いたくなっただけ。」
「・・・そう・・・」
 びゅっと吹き付ける風は、冷たく、ぼんやりと座り込んでいる、その人は、凍えそうなはずなのに、ちっとも気にしない。いや、忘れているのだろう。凍傷にかかって、身動きが出来なくなったら、「あれ? 」と、動かない自分の足に気付くだろう。そんな人だ。
「・・風邪ひくから、帰れ・・・」
「あなたは? 」
「・・・ここで、眺めていたいんだ・・・」
「なら、私も付き合いたいわ。」
 どんよりとした冬の海は、波が高かった。港の内側にいるから、激しい波はないものの、それでも飛沫は顔に当たる。よりにもよって、こんなところで観光も何もあったものではない。なんとなく、気になっていたから追いかけてきた。以前のように、仕事のスケジュールなんてものが、重要ではなくなって久しいから、いつでも、勝手に追いかけて来れるようになった。別に、逢いたいと切実に願うほどの感情はない。ただ、その声を聞きたくなる。
「・・・ひとりか?・・」
「ええ、ひとりで来たの。」
「なら、駅まで送るから、帰れ。」
「もう? 」
「・・・ごめん・・ひとりがいいんだ・・・」
 相変わらず、振り向いた表情は穏かに微笑んでいた。だが、瞳は凍ったように動かない。微笑みの仮面を纏い続けてきた、その人は、どんなことがあっても、それを剥ぎ取ることはしなかった。
「少しだけ、独りにしないで欲しいの。」
 けっして、他の誰にも言えない言葉を、すんなりと、私は吐き出す。この人以外には、絶対に吐き出せない言葉だ。この人だけが、無言で、そして、何の感情の震えもなく、傍にいて貰える相手だ。話さなくて良い。ただ、その体温と姿だけがあればいい。時たま、声があれば、なお、満足だ。
「・・・一晩くらいでいい?・・」
「ええ、一晩でいい。」
 すると、その人は、ふわりと微笑を深くして、空を見上げた。真っ青な空は、とても冷たくて、そろそろ手が痺れている。だが、急かすような真似はしたくなかった。少し前から気付いていた、その人の瞳の動き。よく誤魔化せるものだと感心する。たぶん、当人は気付かない。無頓着を極まった、その人は、自分が、どんな状態か、なんてことは関心がない。
「・・・天国なんてものはさ・・・」
「ええ。」
「・・・残酷な考えだ・・・」
「そう? 」
「・・だが・・俺には必要で・・・」
「ええ。」
「・・・無いと、壊れそうになる・・・」
「・・・・・」
「でも、きみまで、同じ事を考えてなくていい。ただ、俺だけが拘っていたいんだ。きみは、そういう輪廻転生の考え方をする宗教観は、持ち合わせていないだろ? 」
「騙されてあげるわ、あなたになら。」
 騙す? と、その人は、首を傾げる。そして、口元を歪めた。笑っているフリが、本当に上手だ。昔は、それに騙されて、よく安堵させられていた。本当のところは、かなり大変なことだったと、後で聞かされて怒るより呆れたものだ。今はもう、その微笑に騙されることはなくなった。ぽっかりと開いてしまった心の虚が、瞳に、はっきりと現れている。生き甲斐を亡くしたことを、その人は、無自覚に感じて、独りで居たいのだと刷り返る。本当は、生きていることに絶望したのだ。だが、このまま絶望されるなら、どんなに惨めなことをしてでも、縋りついて生かしてやる、と、決めた。土下座して懇願しても、強引に檻に閉じ込めてでも、独りで逝かせるなんてしない。ふたりで、ここまで来た。だから、独りではないことを気付いて欲しい。
「・・・・相変わらずだな、あんたは・・・あんたぐらいだぞ、俺に、そんなこと吐くのは・・」
「そうね。私にしか出来ないから、これは特権なの。」
 ずっと、コートのポケットに忍ばせていた小さな水筒を取り出す。暖かいコーヒーが入っている。波止場の小さな突堤で、それを注いだ。
「飲んで。」
「・・用意がいいな・・・」
「だって、暖を取らないと、こんなところで居られないわ。」
 激しく湯気を上げているコップを差し出すと、黙って、それを口にする。身体が麻痺しているから、たぶん、味なんてわからない。そして、私だけが、その人に全てを覗かれない。
 ただ、無言で、それを飲んでいる、その人の傍に座り、青空を見上げていた。すると、目に冷たいものが落ち、それから、いくつもいくつも、それが降ってきた。
「あら、どこから流れているのかしら。」
「ん? 」
「ほら、これは雪だわ。でも、快晴なのに、・・・どこから・・」
「・・・さあね。・・・それは、風で飛ばされてきたんだろう。」
 ごくりと、湯気が上がらなくなったコーヒーを飲み干して、コップを返してきた。少し時間がある。騙されている。いや、たぶん、自分も同じことを願っている。
「ねぇ、りんさん。この雪は、きっと、あの子のいる場所から流れてきたのよ。」
「『いい加減に湿っぽいのは、やめろ』っていうメッセージかい? 」
「ううん、『待っているから、ゆっくり来て』だと思うわ。」
 そう、口にした途端、まるで、それを肯定するほどに、大量の雪が降り落ちてきた。ふたりして、顔を見合わせて、本当に微笑んだ。
「・・・騙されてくれるわけか・・・」
「ええ、騙されてあげるのよ、私は。」
 見上げているうちに、雪はすぐに止んだ。そして、崩れるように、その人は、私に倒れこむ。携帯電話を取り出して、数キロ離れた場所に待機している人を呼び出した。
「本当は騙しに来たの。もう限界だから。」
 迎えが来るまで、その人を抱き締めていた。鏡を見ても、その人は、自分の姿なんて認識しない。だから、どれほどやつれたのか、それすらもわからない。たぶん、視力が覚束ないことだって気付いていない。だから、迎えに来た。泣き喚いて、怒鳴って、どんなことをしても傍に居て欲しかった。






 のんびりと、空を見上げていた。たぶん、これは、あの時と違う空だ。真っ青だが、冬の色ではない空だ。強いて言うなら、秋空に近いかもしれない。案内された場所は、とても豪奢な場所で、場違いだと思った。そこには、大きな鏡がある。
「お待たせいたしました。」
 なんだか、実際には在り得ない格好の偉丈夫が、入室してきた。三国志の世界だったかな、と、内心で、その衣装を思い出していた。
「このようなところへ、お呼び立てして申し訳ありません。」
「・・はあ・・」
「実は、お願いと、教えていただきたいことがございます。」
「・・俺に?・・」
「はい、あなた様でなければ、わからない事柄で・・・私どもも、すっかりと困っております。」
「・・はあ・・」
作品名:りんみや 風花 作家名:篠義