篠原 風花
「じゃあ、入りましょう。ところで、橘さん。何か、御用かしら? 」
まあ、有体に言って、「帰れ」 と、言いたいのだ。この女は。なぜだか、目の敵にされているとしか言いようがない。自業自得であることは否めないものの、そんなにあからさまに、言わなくてもいいだろうとは思う。
「これ、最新号が出てたから配達に来ただけだ。」
小脇に挟んでいた雑誌を、若旦那に差し出す。用件は、それだけだ。暇つぶしにはなったので、これで帰路についても、別にいいか、と、立ち上がった。手渡した雑誌を目にして、そいつは、ニコニコと
笑った。
「ありがとうございます。どうせ、寮に帰っても用事はないんでしょう? 晩御飯でも食べていけば、どうです? 」
「そこの美人が、『うん』と言えばな。」
「あら、私は、篠原君がいいと言えば、それで構わないんです。」
その言い方が、あまりにもきつかったので、若旦那が少し低い声を出す。
「・・雪乃・・・」
だが、窘められたほうは、肩を竦めてみるぐらいのことだ。
「とりあえず、もう少し昼寝なんかしていただきたいと思うの。朝からバタバタしてたから、疲れているみたいだし? 」
「・・・うん・・・まあ、そうだね。実家から、鉢植えを受け取ってきたり、あっちで、ガーデニングの手伝いしてきたり、だったからね。」
「というわけなの、橘さん。」
「別に、居間で、ごろごろテレビでも観てればいいんじゃないですか? 寮でも同じことでしょ? 」
悲しいかな、この若旦那の予想は、的確すぎて反論できない。たぶん、帰ったところで、そういうことになって、結局、寮の食堂で食事して、・・・・という展開だ。帰ったほうがいいかな、と、口にしようとしたら、「でもね、橘さん。うちの窓からのほうが、この風花は、よく見えると思うんだけど? それでも眺めて、のんびり昼寝すれば、いいんじゃないですか? 」 と、若旦那に遮られた。
「つまり、篠原君は、橘さんを夕食に招待したいわけね? 」
「いや、それより、この風花を、ゆっくり説明してもらいながら、観賞したいかな? それに、この雑誌、読みかったからね。」
「わかったから、中へ入って。こんなところで長話はダメ。」
結局、彼女も、若旦那には逆らえない。さあさあ、と家へと、若旦那の腕を引っ張って歩き出した。また、びゅっと風が通り過ぎて、きらきらと青空に白いものが舞う。
・・・・こんなことですら、知らないって、おまえ、やっぱり世間知らずだよ・・・・
自然というものと、ほとんど接したことがない若旦那は、単純な自然現象も喜ぶ。「うわぁ」 と、声を出して、見上げている姿は、まるで子供みたいだ。
「橘さん、早く入って。」
「ああ、悪い。このレジャーシートは回収するのか? 」
「ええ、そうしてちょうだい。紅茶でも入れるわね。」
彼女だって、別に、本気で「帰れ」なんて言わない。できれば、この自然を知らない同居人に、いろんな話をしてやって欲しいとは、常々言うからだ。
「なあ、若旦那。」
「はい? 」
「ダイヤモンドダストは知ってて、風花は知らないっていう、知識の偏りはどうだ? 」
「いや、そういうことじゃなくて、古い言い回しとかは知らないっていうか・・・その実物を目にしないっていうか・・・そういうことですね。ダイヤモンドダストは、麟さんの研究室で見せてもらったことがあるんです。」
「本物じゃない。」
「いや、本物ですよ。ちゃんと、氷点下の状態を作り出して・・」
「そうじゃない。あれは自然現象で、高山でないと起こらない現象だ。そういう場所で起こるのが本物で、研究室で作り出すのは、所詮は作り物だ。」
じゃあ、本物は一生、見れませんねぇーと、若旦那は苦笑した。そんな場所に行けるだけの体力はないからだ。
「映像としては、ライブラリーにある。」
「でも、実物ではないですよ。」
「現象としての本物ではあるだろう。それぐらいなら、職権乱用で借り出してきてやるから、とりあえず、中へ入れ。」
無理矢理に、後輩を窓から室内へと押し込み、バタバタと翻るレジャーシートを畳んだ。いつの間にか、植物に関心を寄せるようになった。嘘をついた相手が、よく、その後輩を植物園へと連れ出していた。世間知らずも甚だしい後輩に、もっと、たくさんのものを見せてやりたいと、そう、その相手は考えていた。たぶん、その相手との一番楽しい思い出だろうから、若旦那は、植物が好きなのだ。
居間のテーブルの上には、小さな鉢植えの梅がある。実家から貰ってきたのだと、若旦那は微笑んで、窓のほうへ目をやっている。だが、風花なんて、一瞬のものだから、もう雪は舞っていない。
「・・・『キツネの嫁入り』っていうのも、あるぞ。」
ぼそっと、そう言ったら、「知ってますよ。」 と、振り向きもせずに返事だけした。
「それは、たまにあるから、母から教えて貰いました。」
「ああ、そうか。あっちのほうが詳しいだろうな。」
用意された紅茶で暖を取る。そして、飲み干したと思ったら、強引に、後輩の同居人に奥の部屋に連行された。
「とりあえず、監視してて。」
「はあ? 」
日当たりの良い奥の部屋は、畳であるから、後輩の同居人が、ぽいぽいと座布団を放り投げた。そして、後輩にだけ毛布を用意しているのが、本当に、いい性格だと思う。
「橘さんのは? 」
「いらないよ、俺は。とりあえず、おまえ、横になれ。ほら、また降ってるぞ。」
乱暴に、肩を掴んで、後輩を横にした。それを確認すると、後輩の同居人は、満足したように頷いて部屋を出る。とにかく過保護な同居人は、休日にゆっくりとさせたいらしい。燦燦と降り注ぐ陽光に、眩しそうに、目を細める。
「ねぇ、橘さん。」
「ん? 」
「あれは、空からも視えるものなんですか? 」
「いや、それは無理だろう。本気で吹雪ぐらいの勢いがあれば、空からでも確認できるだろうけど。」
「・・・ああ、そうか・・・知ってたのかな? 」
「知ってただろうな。」
今はもう会えない相手。主語が抜けていても、それはわかった。ずっと、悔いている。だが、それは、やがて薄れていくだろう。そのためにも、違うものをたくさん知ればいい。忘れるのではなく、綺麗な思い出だけになっていけばいいと願っている。
「・・・梅の花は、いい匂いなんですよ。だから、母が、寝室にでも飾れって。」
「ふーん、寝室ねぇー。それ、雪乃のとこ? 」
「・・まあ、そうですね、今のところは。」
苦笑して、若旦那は、寝返りを打つ。過保護な同居人は、若旦那の独り寝が心配らしく、同じベッドに眠っているのだという。もう、いい加減、その同居人とか後見人とかいう関係ではなくて、いっそのこと、夫婦になってくれればいいのに、と、誰もが思っているが、この若旦那は、ちっとも、そんなことは念頭にはないらしい。だから、同居人も、何も言わない。
「・・・ほんと、おまえって、世間知らずだよ。」
「すいませんね。」
「いや、ほら、あのな、独り者の俺が言うことじゃないけどさ。その、雪乃が、どういうつもりか、わかってんだろ? 」
「実家の両親も、橘さんと同じようなことを言ってました。」
「ならさ。」
「・・・・すいません・・・ちょっと眠くなってきた・・・」