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吉野天人

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これは『古の五節の舞』という舞で、その昔、天武天皇が吉野に行幸された折、天人が天降って舞を踊り慰め奉ったが、その五人の天女の舞振りが、それぞれ異なった節だったので五節と名付けられていると天人は側に座って説明してくれた。そして彼女自身も曲に合わせて唄を歌い出した。しかし、それは、どちらかといえば地唄と呼ばれる日本古来のもので最近のようなリズムにのるようなものではなかった。しかし、この唄が長い間耳から離れなかったのも事実だ。素朴で、それでいて繊細な節のついた味のあるものだ。

………少女は幾度 君が代を、 撫でし厳も尽きせぬや。春の花の、
梢に舞ひ遊び、飛びあがり飛びくだる、げにも上なき君の恵み。………

 五番めの天女たちが舞い終わると全員が打ち揃って、桜でつくられた雲にのって消え去っていくのを睡魔が襲ってくるのと対抗しながら見送ったように思ったが、その後は記憶がなくなった。
 翌朝、太陽が登り始めるのと同時に目覚めた。場所はやはり、桜林。だが、桜はまったく咲いた形跡がない。誰かが見せた夢なのか、それとも狐狸にだまされたのか、なかなか品の良い幻だったと自己満足した。
「おはようございます。」
その満足をへし折るような声が聞こえた。昨夜の天人である。にこやかに顔を覗いている。
「今朝は和服ですか、昨日の姿のほうがいいのに……」
「あれは昨夜だけです。ようお眠りでしたね。お風邪は大丈夫ですか。」
普通こういう時の定石は否定の筈なのに彼女は肯定の答えを返した。つまり彼女は間違いなく昨夜の夢の首謀者だということだ。彼女に促され起き上がり吉野の駅へと下ることにしたが、まだ早朝すぎてロープーウェイも動いていない。というわけで天人様の案内で山を降りることになった。奥千本の桜を見ながら妙法院を通り山道を三十分も歩くと駅が谷間に見え隠れしはじめた。駅では丁度、大阪行の始発が運転しょうという時間になっていた。
また来年きますよ、と言う言葉に彼女は淋しそうに微笑んだ。もうお逢いすることもないでしょう。彼女はこう返してきた。
「毎年同じ頃に桜を見る訳やありませんから、貴方が来られる頃とうまく逢うのは難しぃおもいますよ。それに昨日のような世捨人の顔が、すっかり無くなって誰かと逢いたいと思うてはりますね。もう大丈夫、いつか春にお出でなさい。やっぱり桜は春のものですさかいに…」
あまりに図星だったので返答が遅れた。確かに今は誰か気の合う仲間に逢いたかった。駅の入り口で彼女は軽く会釈して別れの挨拶をした。構内から振り返ると彼女はまた吉野の山へ戻って行くところだった。去り際の言葉が背中に写る。人が崩して逝く自然の中で彼女は暮らしている。なにかへの矛盾。なにかへの腹立ち。発車ベルと共に列車は出発した。山の中を徐行したまま列車が進む。ほとんど誰も乗り合わせない列車は静かに吉野山から去った。霧のかかった山と吉野川を横目にして列車は進んで行く。山際の段々畑や水田跡、農家の軒先の色づき初めた柿、どれも都会にはない風景である。懐かしい、とは都会生まれの都会育ちという生粋の人間には少々疑問の残る感情だが、なぜか心が落ち着く。   
 無事大阪に到着。昨日泊まる筈のホテルへ入る。どうせ三日間の予約だから部屋の心配はない。フロントで昨日から予約しているのだが、事情で到着が遅れた、と係りの人間に説明していると、ちゃっかり女房が泊まっていた。 今日の夜、ここで合流することになっていたのだが、相手も予定が変わったらしい。部屋の番号を聞き出した。807号室の前で呼び鈴を鳴らすと、それ以前に起きていたらしくすぐに扉が開いた。おはよう、と互いに挨拶をして部屋に入った。
「せっかく仕事を切り上げてやって来たら、あなたはもぬけの殻なんだから驚いたわ。」
「うん、実はね。ちょっと吉野の山で天人と花見をしてたんだ。」
妻は不思議そうな顔をしてから笑い出した。そう言うことなら仕方ないわね、本気にはとってくれていない様子だが、とりあえず吉野山に滞在したことは伝わった。別に信じなくていいよ、と笑いつつカーテンを開けた。そこには昨日の風景が嘘のような大都会が広がっている。人と自動車がところ狭しとざわめきあっている。人が蟻のように自動車が石ころのように地面に這いつくばっているのが、おかしかった。そして、なぜだか生命を実感した。静かな場所では感じられないエネルギーと人間のしたたかさを感じた。
「今日はどこへ行きたいの? 」
妻は珍しそうに窓の外を覗いているのが、かわいいとでも言いたげに子供に尋ねるような口調だった。
「そうだなぁ、今日は海がいいなぁ。」
なにもかもを覆い隠してしまう山とは対称的な海という存在。静けさという点は同じだが、その存在自体の違い。
「今度は海の底にある海龍王の宮に行けるかもしれない、」
「亀がお迎えに来てくれるの? 」
となりに並んで相槌が飛ぶ。せっかくの休暇はなかなか良いはじまりの予感を知らせている。
作品名:吉野天人 作家名:篠義