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吉野天人

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 冬に、吉野の山を訪れた。桜の名所として名高い場所ではあるが、桜のない時期には閑散として観光客もあまりいない。蔵王堂も静かなもので、読経の声が外まで聞こえてくる。何時の頃からか、大勢の人と交わることに嫌気がさして、たまに、こういう時期外れた観光地へ出駆けるようになった。奥千本まで登ってみたが、そこには誰の姿も見当たらない。ほっと息をついて、煙草を口にする。誰もいないところで、こうやっているのが一番安心するとは、我ながら情け無い。誰か他人がこんな姿を見れば、少々神経を疑うのではないだろうか。
「あの、……」
声をかけられて、驚いて振り向いた。そこには和服姿の女性がひとり、うちの女房といい勝負の美女が、動いた気配もみせずに立っている。桜林の中、誰かが歩けば草が鳴りそうなものなのに、それとも音に気がつかない程ぼんやりと山を眺めていたのだろうか。
「吸殻を投げはったら、山火事の元になります。気ぃつけてください。」
その女性は吸いかけの煙草を指してそう言った。確かに危ないな。そして、彼女は煙草を揉み消したことを見て、画家さんですか、と尋ねてきた。どうやらぼんやりと考えていたのが、構図なんぞを考えているという高尚な態度と間違われたらしい。
「いや、ただの旅行者です。」
「関西の方でもないのに、こんな時期外れの季節にお出でになるには理由でもありますのん? 」
彼女は季節外れの旅行者に興味がわいたらしい。季節外れの静けさを楽しみたいが為の旅行である、と答えると残念そうな顔をした。
「そうですか。でも一度くらいは、ここの桜を観に来てください。それは、それは見事ですから、その昔、吉野山の桜が美しいと天人が来やはったくらいやから。」
言い伝えだろう。ここは神秘と伝説が山程ある場所だ。義経と静御前の悲恋から役の行者の修行場まで、過去の話はいくらでもある。霊峰 大峰を後ろに持つ吉野山は、ここを越えれば、そこは神々の山が連なりはじめる吉野山系の伝説への入り口である。
「吉野の桜につられて来た仙人がいたわけですか。でも、今じゃ人が桜を埋めてそんな悠長なことはないでしょう。」
「そうですね。有名な為とはいえ、静寂を好む方には向きませんやろうねぇ」
昔のような桜なら是非一度花を楽しむ為に来てみたい、と本心から付け足した。うるさい花見なんか、付き合う気もありゃしない。しかし、自分だって仲間が揃えば騒ぎを起こす。人間とはとかく、わがままな生き物である。彼女はその言葉に少し微笑んでから、話題を転換させた。今日はここへ泊まるのかと尋ねたのだ。この山は完全に観光化していて、好きになれないので夕刻には下山して大阪まで戻るつもりだった。しなびた温泉宿などいまや存在しない。こういう誰とも逢いたくない時はホテルのほうが都合がよかった。嫌なら、何日でも部屋へこもっていられるからだ。
「お急ぎやないなら、」
彼女はこう言って切り出した。
「もし、昔のような静かな桜が御所望ならお見せしてもよろしいけど、どないですか。」
彼女の神経を疑いたくなる言葉だった。そして、もうひとつの考えが頭に広がった。もしや、彼女はこの辺りの宿屋の女将かなにかで客引きをしているのかとも思った。だが、どうみても商売の色が見えない女性だ。どんなに上手に隠しても一度、水に染めた手はどうしても水から離れられない。どこかに水が見え隠れするものなのだ。それがこの清らかな女性からは感じられない。ごく当たり前に言ってのけただけに怖いのである。わずかな沈黙が生まれた。
「どうやら信用してはらへんようですから、無理にはお誘いしません。ほな、失礼いたしました。」
彼女は踵を返して桜の林から去りはじめた。しばらく、あまりに正常な反応なので考えていたが、これも旅なのだろうと思い直して呼び止めた。すると、待っていたように振り向かず、彼女は夕刻に迎えにくるとだけ言い残して歩き続けた。
「どこへ? 」
「そうですなぁ。蔵王のお堂の下に脳天という神社がありますさかい、そこでお待ちください。静かなところですさかい、きっと気に入られますやろ。」
彼女はさらに奥へと道を取り、去ってしまった。追い駆けることをを拒絶するようなものが彼女の後姿には在った。


 夕刻に指定された脳天神社に立っていた。やって来たものの階段の凄まじさには閉口した。急な傾斜の曲がりくねった道が全て階段なのだ。谷底の神社まで猶に三十分はかかった。さすがに行者の修行場だけのことはあると足がガタガタと笑うのをこらえて苦笑した。確かに静かだった。ここで働く僧侶たち以外はまったく誰もいなかった。観光客の姿など見えない。水掛け観音を横目にして本堂に入る。ここは白蛇を奉る神社で、本堂の側にはその親神にあたる龍神が奉られている。ぐるりと一周して、また水掛け観音のところまで戻った。一応観光客の面子というので観音様に冷たい清水をかけて合掌した。それから先程苦労した階段の下のほうに腰かけて、あの女性を待った。もし、嘘ならそれも一興という気分だった。日が暮れて、それでも来なかったら、その時は引き上げようと心に決めていた。しかし、そう待たずに彼女が、腰掛けていた階段の上のほうへやって来た。降りて来るのではなく、手招きしている。仕方無く、その長い直線の階段を登った。息を切らして登って行くと彼女は少し嬉しそうにしていた。
「お待ちになってて、よかったです。もしかしたら、お帰りやないかと心配してました。」
彼女が待っていた場所は小さな滝を横切る橋の上だった。ここは白蛇様がよくお出ましになる場所だと言った彼女は柏手を打ち何やら口で唱えた。「では参りましょう。」と声をかけられた瞬間に天空の上下が無くなった。気付くと、そこは昼間彼女と逢った場所だった。しかし、昼間と違うのはそこに在った桜が全て花を咲かせて風に舞ってちらちらと散っているところだった。まことに風流な景色である。その散り行く中に彼女が立たずんでいるのだが、衣服がかなり違う。まるで能楽の舞台から飛び出したような衣裳である。
「……驚きなさいませんように、私くしは御覧の通り天人でございます。昔、吉野の桜の美しさに降り立ちましてから、ずっと毎年欠かさず参っております。けれども、貴方様がお嘆きのように、ここは変わってしまいました。桜は少しも変わりませぬのに………ですから、私くしは脳天の白蛇様とその親神様であらせられる龍神様にお願いして毎年桜の季節より早めに桜を愛でさせていただいております。この度はたまたま、貴方様が何やらお疲れの様子でしたので、お誘いしたまでのことです。」
天人の言葉が終わるのと入れ替わりに虚空に不思議な音楽が聞こえ、いかにものどかな気分の中を天女たちが天降ってきた。そして、軽やかな袖を緩やかな風に翻らして、散る桜に戯れ、世にも美しい舞を舞う。これが夢でなくてなんであろうか。太古のシルクロードで憧れられた飛天翔の実物に逢えるとは考えもしなかった展開である。絹の裾をなびかせ、自在に風を操り、空を舞う。途中、音楽の調子が変わりその度に舞う天女も入れ替わっているようだった。
作品名:吉野天人 作家名:篠義