さかなの森
よく聞き取れなかったものの、それはまだ若い男の声だった。
恭しく黒羅紗の男が頷き返す。認めます、の意。
普通ならここで花嫁からも同様の声が上がり、それに村人達が承認と歓迎の意を示して婚礼完了となるのだが……。
これからいったいどうなるのかと身を乗り出した瞬間、
「――っ」
「あっ」
私の手を振り払って女が動いた。再び手を伸ばしても届かない早さで青樫の隙間を抜けて広場に躍り出る。
突然のハプニングにざわりと村人の視線が集中した。
けれどもそれは彼女を止めるにはあまりにも役不足だった。彼女の目は恋人しか見ていない。私の所からでもはっきりそれが分かる。
短く発された掠れた呼び声は彼女の恋人の名前に聞こえた。上半身を羅紗に覆われた姿でも、彼女には声だけで恋人だと確信できたのか。目指すは『さかな』の花婿、ただ一人。
婚礼衣装である淡い色の羅紗に手が伸びて……
「いやああぁぁぁああぁぁあ――っ」
女の絶叫が夜の青い闇を引き裂いた。
篝火に照らされた花婿の上半身は、完全に人のものではなかった。
残念ながらというか、幸いにしてというか、それ以降の私の記憶は極めて曖昧である。
後頭部にあまり小さくもない裂傷があったが、誰かに見つかって邪魔者と見なされ襲われたのか、あるいはあの場から逃げようとして自分でぶつけたのかすら定かではない。
私を最初に発見した村人の話では、私は森の外に倒れていたらしい。一緒にいたはずのあの女の姿はなかったと言う。あったのは、幾種類もの、通常より二回りは大きい魚の鱗。
否、『さかな』の、鱗。
――私は今、民俗学を続けるかどうか迷っている。