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さかなの森

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 地域住民から『さかなの森』と呼ばれる森がある。
 恵みの期待できない青樫が鬱蒼と茂った、獣ですら入ることをためらうような、そんな森だ。当然のように村人の出入りはない。あるのは恐ろしげな噂と言い伝えだけ。

 いわく、その森には『さかな』が棲む、と。

 民俗学を齧って十二年。私がこの森にひかれたのは、そんな言い伝えからだった。
 古い文献にのみ、辛うじて見かける存在、『さかな』、或いは『さかなびと』。
 風雨にさらされた石像や薄ぼけた挿絵では、とある幻想画家が書いた逆魚人によく似た魚人のような姿をしているが、おそらくあれは魚鱗病患者を表しているのだろうと思われる。
 今でこそ皮膚病の一種であると解明された魚鱗病は、少し前までは呪いだの先祖返りだのと様々な迷信を生み出した。
 首筋に鱗のようなものができることから始まることも、それに輪をかけていたように思われる。さながら魔物から死の口付けを受けたかのように、じわじわと背中や腕外側部分へと広がってゆく鱗状の皮膚。不思議とそれ以外の場所には発症しないものの、放っておけばより一層硬度を増してゆく硬化した皮膚が病者に課す激痛は筆舌に尽くし難い。
 今は薬液によりそれを拭い去り緩和することが可能だが、その方法が確立されていなかった当時、魚鱗病がどれだけ脅威になったかは言うまでもないだろう。
 魚鱗病とはまさしく死への恐怖を形にされたものであり、魚鱗病患者はその提示された死を遠ざけるために排除するか奉るかしなければならない、忌むべき存在であったのである。

 そして、それが『さかな』と呼ばれる存在を生み出した――と、推測される。


「つまり、ただの民間信仰の対象としての偶像じゃないって訳だ」
 分かるか?、と私は背後について歩く女を振り返った。月光の下、調べ終わった白茶けた石像が私の横で静かに佇んでいる。『さかな』を模したとされるこの石像が結界としてこの森を囲っているらしいことは調査済みだ。つまり、方向は間違っていない。この中心に目的地がある。
 女は息こそ乱していたものの、いまだ強い意志を伺える瞳で私を見て、ゆっくりと一つ頷いた。
「彼は古くから言われるように『さかな』の呪いにかかって『さかな』になるのではなく、今も一人でその病に苦しんでいるかもしれない。……そういうことですよね?」
 そう答えつつもまだ懐疑の色の抜けていない女の漆黒を見ながら、私は小さく苦笑した。この時代に、と思わなくもないが、民間信仰とは根強いものだ。急に意見を変えろと言う方が間違っている。かもしれない、と言えるだけでも彼女はまだ近代的な考えの持ち主だと言えるだろう。
「そのとおり。魚鱗病患者がいずれなると想像された姿、それが『さかな』だ。魚鱗病は首と背中、それと腕外側の皮膚が鱗のような形態に変質するだけだが、魚のような鱗が生えた、イコールいずれ魚になる、という結論に行き着くのは、まあ非科学的だがわからんわけでもないね。……先に進んでも?」
 はい、と女が頷くのを確認してから、私は洋燈を振って明かりを消した。道は月光で十分分かる。ならば相手を不用意に警戒させるような明かりは必要ない。
 さらに森の奥へと進める足元で、ザクザクと灰羊歯の一種が潰れて音を立てた。
「私はこの、『さかな』が魚鱗病患者のメタファーであるという説に間違いはないと思う。ただ、それを確定する証拠が乏しい。……分かるだろう。迷信深い村人達は患者が出ることを隠したがる。この森の話もいまだにタブーとされているくらいだ。君の協力がなければ私も調査を半ばで諦めていたかもしれない。迷信にはこうあるだけだ。――満ちた月が天頂に昇るとき」
「海望みの広場にて、『さかな』の婚礼の儀は行わるる……」
「そうだ。だが満月の夜なんてのは腐るほどある。肝心の花婿ないし花嫁がいなければ意味はない……失礼。君の彼をそうしないために、その海望みの広場へと向かっているんだったな」
 女の非難を背中に感じ取って、私は肩をすくめた。彼女からすればこれは決死の覚悟なのだろう。だから森には入ってはいけない、入れば呪われて『さかな』になる、と迷信は歌う訳だが、それを破るのだから。
「目指す広場はこの先だ。時刻も……まあ、頃合いだな。さて、ここからは足音にも注意してくれよ?」
 青樫の下枝を払っていたナタをベルトにしまって、私はそっと辺りを窺いながら進んだ。木々の合間から見える月明かりがこの先に広場があることを教えていた。そしていくつかの篝火……人の気配。背後で女が息を殺したのが分かった。
「『さかな』……?」
 まさか。女の迷信深さを小さく鼻で笑うと、私はその腕を引いて態勢を低くさせた。こうすれば、青樫の影と灰羊歯の薮のせいで向こうからは見えないはずだ。
 一つ、二つ、三つ……。篝火は十を数えたところで増えるのをやめた。目をこらせば、オレンジの灯火の中に、体を隠すように深く、濃い色の羅紗布を被った人影が見えた。
「結婚式の介添人と言った風情だな。布のせいで上半身を確認することはできないが……」
 私の言葉に震えながら女が幾度も頷いた。
 彼女の目は先程から、篝火の右奥側へと注がれている。この辺りの風習では花婿が登場する位置だ。
 何故婚礼を模すのかは分からないが、私の想像では、これは入森の儀式と思われる。外の世界と決別し、森の住民となるための儀式。
 これで通常の婚礼の儀式ならば花嫁が輪の中央で花婿を待つのだが……おかしいな。花嫁らしき姿はないぞ。偶像などの代わりとなるようなものも見当たらない。婚礼を模しているのに花婿だけなのか? 奥に控えているのか、それとも片方だけしかいないということ自体に何か意味があるのだろうか。
 もっとよく花嫁を探そうと私が視線を変えたその時、炎の揺らぎと鈴の音を連れて、右奥端から白い影が姿を現した。介添え人達とは違う、金の縫い取りのある月光にも似た色の羅紗。――花婿の登場だ。
「あ……」
 女が立ち上がって恋人の名前を呼ぼうとしたのを私は後ろから口を塞いで止めた。何故こうしたのか自分でもよく分からない。だが、駄目だ、と咄嗟に思った。この儀式をもっとよく見たいと思ったからだろうか。はたまた異様に厳粛な雰囲気への畏怖だったのだろうか。
 女が抗議するように私へと視線を向けるが、無視してただ広場へとだけ意識を向ける。
 広場にはトトン、トトン、と足を鳴らす音が低くこもっていた。花婿を迎引し誘導する音だ。ちらちらと地面に落ちる火花。合間を縫うように花婿の鈴。広場の中央へと続く。
 トトン、トトン、トトン。シャン、シャン、シャ…ァン。
 繰り返される音のある静寂。三度、それからまた三度。
 そして……終焉。水を打ったように一切の音が消える。虫の声すら聞こえない。私も女も思わず息を呑む。
 やがて、静寂を引き連れたまま黒い羅紗を被った男らしき影が花婿の前へと進み出た。神官、もしくは村の纏め役といったところか。こもった低い声で何事か花婿へと告げる。おそらくは花婿の意向を問うているのだろう。
 花婿はゆっくりと頷いて月の方角へとこうべをたれ、膝をついた。村人が見守る中、紡ぐのは短い承諾と誓いの言葉。
作品名:さかなの森 作家名:睦月真