海に沈む
こんなに近くにいることは初めてでした。たとえ父さんがどれだけ怖い顔をしていても、僕はここにいたかった。母と二人でいたときは、時々触れてくれる温かさだけで、十分幸せでいられた。けれど、いなくなった途端、こんなにも。一人でいるなんて、誰が出来るのか。だから、今、こうして空いた隙間を埋めるように。
やりたいことはたくさんあるけれど、最初から出来はしないので。僕は、立ちすくんでいることしか出来ないので。迷惑かもしれないけれど。もっと、いろいろなことを言いたかった。海のことを、教えて欲しかった。
「生まれていれば20か」
正面を向いたまま、父さんはぽつりと言いました。風の音にも消えない、はっきりした声でした。
「うん。2月の予定だったから、あと3ヶ月で21だよ」
僕も、相槌を打ちました。たとえ声が届かないと分かっていても。そういえば、こうやって、親子らしい会話さえ出来なかったんだ。
父さんは錆びた缶の蓋を指でこじ開け、僕を覗き込みました。底で縮こまる僕の声は、潮騒にかき消されて、けれど、父さんは分かってくれたと、そう信じたいのです。
そのまま傾けられた缶の中から、僕は、さらさら、さらさらと、少し強くなった風にのり、空を舞いました。胸いっぱいに吸い込んだ潮と、撥ねる波。最後に見下ろす世界は、とても綺麗なまま。そして晴れやかな気持ちのまま、ゆっくりと、待ち構える波間に落ちていきました。少しだけ感じた寂しさも、今は消えて、体が、ぱっと、とてつもなく大きく広がりました。
闇の中、遠く離れていく父さんの顔は、静かだけれど、そう、確かに、とても穏やかだったのです。もう、怖くなんかありませんでした。
「愛しているよ」
ああ、そうか。
僕は、父さんや母さんの好きな海に溶けるんだ。
僕から見ることは出来ないけれど、みんなが僕を見てくれる。じゃあ、そんなに寂しくもない。
思ったよりもずっと優しくたゆたううねりに身を任せながら、僕は痛むことのなくなった傷に安堵していました。
―了―