海に沈む
月のない海。
深く、深く、その水底へたどり着くには、一体どれほどの時間が掛かるのやら。
そこはおそらく、今僕達がいる闇よりずっと暗く、重く、冷たいのでしょう。魚はいるでしょうか。いたら、友達になってくれるでしょうか。
僕は、星になりたかった。
毎晩毎晩、空で輝く星に。
確かに距離は遠いけれど、下にいる人がよく見える。母さんも土になったので。それも見えることでしょう。父さんだって、犬だって、きっと。泣いたり笑ったり、いろんな顔を、高い場所から見下ろしていれば、きっと、寂しくなんてありません。それに、同じ星なら、仲良くなってくれるでしょうから。
けれど、僕は海に沈む。青く静かな深い海に。
悲しくなると、傷が疼くのです。胸から腹にかけて一文字に走った傷を撫でると、不意に、母さんのことを思い出しました。この傷をつけた、母さんのことを。遠い異国の地でで眠る、母さんのことを。
母さんは眠りにつく前、父さんに手紙を書きました。小さなメモに書かれた住所。ずっと昔教えた場所で、今でも父さんは暮らしていました。
一緒にやってきた僕を見た父さんは、本当に驚いていました。僕のことを、知っていたのか、いないのか。手紙を読み、古ぼけたソファに座って、ずっと、ずっと、考えていました。僕はその間、ずっと、ずっと、眉間に皺を寄せる父さんの前で待っていました。そんなにも悲しんで欲しくなかったけれど、慰めが届くわけもなく。
ええ、会ったことすらなくても分かるものなのです。
僕は海を見たことがありません。
母さんは、海が好きで、好きで、それよりももっと父さんのことが好きでした。
父さんは、母さんが好きで、好きで、けれど、海の広さを愛していました。
星の眩しさは聞いたけれど、海の広さは知らなかった僕を、父さんは、車で連れて行ってくれました。今日初めて海を見た僕は、果てしなさと見えない色に、喜びながらも、怖さを覚えていました。けれど、今から僕はここに沈む。ずっと、ずっと。世界が終わるその日まで。
僕たちは、少しずつ音を変える波の音に耳を澄ませていました。一人でもきらめく海原を、見渡していました。真夜中で、車も絶えた道の端で、二人きり、本当に、長い間。