クロネコ
◆ 小さな闇
ただ一匹、クロネコは歩いていた。
ふわり、ふわりと舞い降りる雪は、綺麗だけれど冷たい。
歩いているだけで雪は背中に積もっていく。クロネコは時おり背中を震わせて雪を振り落とし、ただ宛てもなくひたすらに歩き続けた。
見上げれば、月も独り。
周りであんなにたくさんの星たちが瞬いているのにも関わらず、月は淋しそうに見える。
どうして―――?
そう聞いてみたいが、月はあまりに高い。
いつでも、どこにいても月は傍にいるような気がするのに、何故こんなにも遠いのだろう。
月はいつも、見ているだけ。
決して語りかけてはくれない。
でも、それでも良かった。月だけは、どこにいても一緒にいてくれる。そんな気がしたから―――。
そこは綺麗に整備された石畳敷きの路だった。
両脇にはレンガ造りの家々が遥か遠くまで連なり、窓からは暖かな橙色の明かりが漏れている。
ヒトの住む、小さな町だった。
家々の明かりと街灯の炎が石畳敷きの路を良い具合に照らし出していて、辺りはさほど暗くはなかった。
路地に入り、大通りに出る。
ふと立ち止まり、見上げる。そこには幻想的な風景が広がっていた。
月明かりと町の光が照らし合い、舞い落ちる雪はちらちらとほのかに輝いている。更にそんな雪たちが、時おり訪れる微かな風にあちらこちらで持ち上げられ、まるで舞い踊っているかのよう。
ふわり、ふわりと舞う雪たちは、綺麗で、だけどやっぱり冷たくて。
ぶるる、と背中を震わせて雪を払った。
思い立ったようにクロネコは一本の街灯に歩み寄ると、根元にそっと座った。そしてもう一度、夜空を仰ぐ。
輝きをまとった幾百もの小さな天使たちが、しゃらん、しゃらんと楽しそうに舞い踊りながら、ゆっくりと降りてくるようだ。
天使たちに囲まれていると、そのまま自分をどこか別の世界へ連れて行ってくれるような気さえした。嘆きや怒り、哀しみといった、あらゆる負の感情から全く逸脱した、そんな世界へ。
そっと、目を瞑る。やがて目を開けた時、眼前に広がる暖かな世界を夢見て。そんな思いが掠めたのはけれど、一瞬だった。
重い瞼をゆっくりと持ち上げる。目の前にあるのは変わらず、冷たい石畳に、自分を囲むようにして連なる家々。そしてそれらを隠すように降り積もる雪だった。
雪の天使たちはやはり、別の世界へ連れて行ってくれることはなかった。
雪はもう、輝いてはいなかった。
不意に、足下の石畳がびりびりと震えた。続けて、大地を轟かす雷鳴のような、ゴロゴロという音が聞こえてきた。
条件反射のように、クロネコは傍の路地へと駆け込んだ。少しだけ頭を出して様子を見る。
程なくして、ゴーという強風とも雷鳴ともつかない轟音を立てて、大きな足と大きな車輪が目の前を通り過ぎた。
思わず、びくりと身体を震わせる。
それは、馬車と呼ばれる人の乗り物だった。
自分よりも何十倍も大きな生き物が、まるで何かにとらわれているかのように従順に、車を曳いて行く。
もう何度も見ているはずだったが、けれど不思議な光景だとクロネコは思った。
そして車の窓から見えた、艶やかな服装をした女のヒト。見えたのは少しだけだったけれど、女のヒトは、それは綺麗に着飾っていた。それはまるであの雪の天使たちのように。
しかし着飾ってこそいたけれど、女のヒトの表情は冷たかった。
今まで見てきた人たちもそうだった。見かける人全てがどこか冷たい、無機質な表情をしていた。
世界の何もかもを諦めてしまったかのような冷たさ。
暖かさの全てを忘れてしまったかのような、そんな冷たさだった。
けれどクロネコはいつも、それは皆、気のせいだと思うことにしていた。
あんな暖かな明かりを、あんなにも雪を輝かせることのできる明かりをつくり出せるヒトが、皆が皆そんな冷たい顔をしているなんて、だってそんなの哀しすぎるから。
そしてクロネコの存在に気が付くと、ヒトのそんな表情は恐怖と怯えに変わるのだった。そして彼等は暴言を吐き、石を投げてきた。棒のようなものを振りかざされ、追いかけられた時もあった。
初めは何故そんなことをされるのかがわからず、クロネコはただ困惑の中を逃げ回っていた。直接問い質してみたかったが、無駄だった。
だから、クロネコは考えることをやめた。
理解することにしたのだ。
自分は自分の意思とは無関係に人に忌み嫌われる存在であり、その事実は決して変わることはない。仕方のないことなのだ、と。
その夜はそのまま、路地の隅で眠りにつくことにした。
特に陰の深いところに身体をうずめる。
そしてゆっくりと、瞼を下ろした。
ただ誰にも、見つからないように。