闇の診殺医・霧崎ひかる
4.
赤いスポーツカーが勢いよくマンションの車庫に入る。北大路の車だ。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ、はあ」
マンションに戻った北大路は赤いマニキュアを塗った腕を水槽から取り出し
た。
「マナミ、お、お前…」
そして、床を見ると―――
「うわあああああッッ!」
フローリングの床には爪の掻き傷、そしてマニキュアで字らしきものが書かれ
ていた。
イタイ コロサレル ニゲタイ ウデガ ニクイ シニタイ
コ ロ シ テ ヤ ル
「あああ、あああぁあああぁ」
冷たい汗がどっと吹き出る。生々しいその腕に今さらながら恐怖を憶え、そ
れの血管がぴくりと動いたと同時に、彼は腕を部屋の奥へ放り投げた。
ごとり、と腕は床にぶつかり、その反動か、「キチッ」と床を掻く仕種をした。
キチ、キチ…
バタン! 外に出て部屋の鍵を閉める。半狂乱になった男の耳に、ドア越しに
微かな音が聞こえる。
キチ、キチ、キチチチチ・・・
きちゅり、きちゅり、きちゅりきちゅり・・
きちゅりきちゅりきちゅりきちゅりきちゅりきちゅりきちゅり
「ひ、ひいっ! ゆ、許してくれ、マナミ」
北大路は再びスポーツカーに飛び乗り、大通りに走り出す。深夜の道路をめちゃ
くちゃに暴走した。
「あ、あれはマナミなんかじゃない。そ、そうだ、他の美しい腕を、女を探すん
だ。僕の言うことを聞く、ぼ、僕だけの奴隷を…」
きち。
車外から、乾いた音が響く。
「な! な、なんで!」
アクセルを踏み込む。スピードは増すが、その音は付いてくる。
きち、きち、きち、キチキチキチチチチチチ…
「ぎゃあああああっ・・・」
翌朝。
朝もやの中、パトカーが走る。交通事故の通報を受け、現場に向かう途中である。
キチキチ、と乾いた音がする。
「ああ、またタイヤの溝に小石が挟まったな」
「嫌ですよねえ、この音。車輪が回転するたびに道路と擦れるもんだから、車の
速さに合わせて鳴るし。まるで追いかけられているみたいだ。」
若い警官がぼやいた。
キチ、キチ、キチチ。
二人は現場に到着し、検証を始めた。
「夜にライトも点けず、暴走、自爆か。」
「うわ、車もそうだけど、中の男も…グチャグチャだ」
「ひどいな…うん? 右手だけはきれいだな。」
「でも、なんだか痣がありますよ。五本の、指で、締めたみたいな」
二人は顔を見合わせ、気色ばんだ。
慌ただしい日常の朝がやってくる。
事故車の整理が速やかに行われる。反対車線のやじ馬の中、白衣の美女がそれ
を見ている。傍らには大きめのボストンバッグ。ちょうど、腕一本入るくらい
の…。
診殺医はメスのように冷たい笑みを浮かべると、その場を去っていった。
<闇の診殺医 霧崎ひかる …完>
作品名:闇の診殺医・霧崎ひかる 作家名:JIN