黒猫の恩返し
「それじゃあ、行ってくるわね。」
「うん。いってらっしゃい。」
家の前に止めてあったタクシーが、荷物を持った母を乗せて、空港へと発車した。
私の名前は瀬野くるい。そこら中にいる平々凡々の高校生だが、たった今母が父のいるイタリアへと旅立ったため、現在大きな日本屋敷に一人暮らしだ。
七年前、母子を置いて出て行った父はデザイナーだ。もともとは日本で仕事をしていたのだが、世界中でも有名なコンテストに出品した服が脚光を浴び、イタリアを拠点に仕事をすることに決めたらしい。それで、ようやく仕事が落ち着いてきたのだろう。こっちに遊びにこないかという手紙が来た。
父と母は、その手紙が来る前からというか父がイタリアに行ったときからよく文通をしていた。そのことから分かるに、二人はいまだに見ていても恥ずかしいほど仲がよい。だから、私は母だけ父の元へ行けばいいと提案した。父は電話で「なんで!?オレはくるくるのかわいい顔も見たいのに!」とぐずっていたが、私が「いい年こいてふざけるな。二回目のハネムーンだと思って母さんといちゃついてろ。」「あらくるいちゃん。ハネムーンは四回目よ。」といったら、ぶつぶつ言いながらも結局は私の提案に従った。
ていうか母さん。三回もハネムーンにいったのか。大体、いくらロマンチック大好きでべたな展開は最高という思考を持っていても、この時代で文通とかもう娘としてどうすればいいでしょうか。
旅行の期間は三週間だ。やはり家を空けて行くのは気が引けるらしく、夏休みという私が家にいる時期を狙って出かけていった。残った娘が心配じゃないのかと思ったが、そんなことはすでに眼中にないようだった。
母は専業主婦で、時々アルバイトをしていた。父の仕送りで十分母子二人で暮らしていけたからだ。それで、母はいつも家事全般をこなしていた。
つまり、私は何もできない。
料理の手伝いや洗濯ぐらいならやったことがあるが、この家は広い。
この家は、母が先祖代々受け継いできたものらしく、ほとんどの部屋が畳。木製。しかも古いときた。これでは普通に掃除機でとはいかない。問題はここだ。母はいつも私が学校に行った後で掃除をしていた。もちろん毎日掃除をしなければならないというわけではないし、今まで母が掃除をしていたのを見たことがないというわけでもない。だが、見ただけでは全てを覚えることなど出来ないのだ。
………………………………。
「ま、いっか。」
どうにかなるだろ。
とりあえずお昼が近いので、ご飯を作ろう。
昼ご飯を食べた後、夕食と明日の朝食の分の食材がないと気付いて、私は買い物袋を持って買い物に出かけた。お金は十分にある。「足りなくなったら引き出してね。」と通帳と暗証番号まで預かったが、私の母は三週間で百万を使い切ると思っているのだろうか。
歩いているうちに、街の中心部に近づいてきたらしく、辺りに高い建物や店が増えてきた。道もきちんと舗装されている。見た目はごみも落ちていなくてきれいだ。道路の脇に、最近テレビや新聞で問題視されるようになってきた温暖化対策のためか、小さく丸く整えられた木が並んでいる。
向かい側の道に渡ろうかと思って、横断歩道を渡ろうとしたら、目の前で歩行者用の信号機が点滅し始めた。特に急ぐわけでもないので、そのまま立ち止まる。
信号が赤になった。理由もなくため息をつくと、視界の端に、妙なものが写りこんだ。
猫だった。
車通りも人通りも少ない。だから気付いたんだろうし、危ないと思っておさえつけようともしなかった。でも、やはり車は通るし、心配なので見つめていると、猫がとまった。
私の足元のすぐ隣で足を止め、そこに座った。あくびまでしている。きれいな毛並みをした、黒猫だった。背筋を立てて、凛としている。
誰だ、猫は車が来ても止まれないって言ったやつは。
猫は好きだ。両親が無類の動物好きだからかもしれない。この猫の行動が面白くてさらに見つめていると、猫がこちらをちらっと見た。
視線を感じたのだろうか。人間の言葉に例えると、「何見てんだよ。」とでも言わんばかりだ。
とりあえず、もったいないと思いつつも猫から視線を外した。やはり猫も、穴があくほど見つめられると、いごこちが悪いのだろうか。
もうしばらく信号を待っていると、ある事に気がついた。この猫、車が途切れても、渡っていかない。まるで、信号が赤の時は渡ったら駄目だということを知っているようだ。
やっぱり面白い。猫に視線を戻そうとすると、信号が青くなった。
猫が立ち上がって進み始めた。前からも人が向かってくるのが見える。私も行こうと足を踏み出した、その時。
ブブオ―――――――――!!!!
車が見えた。普通の赤色の乗用車だった。信号ぎりぎりに突っ込んできたのだろう。私は意外にも冷静に考えていた。
これがあっちの車線だったら何も言うこともすることもなかった。
とっさにすると、声など出ないものだ。何か言おうとしてやはり出なくて変な言葉が私の口から出てきた。もしかしたらふんばってる声かもしれない。私は、今までにない冷静さと必死さで手を出し、つかめた尻尾を思いっきりこちらに引き寄せた。
ブ―――――――――
車は止まることもせず、もう一度クラクションを鳴らし、そのまま通り過ぎていった。
私は立ち上がりかけているような体勢のまま、足の間らへんにいる猫を、そっと見た。思わず地面に爪を立てたのか、猫も変な格好で固まっている。
周りの人から変な目で見られたが、二人とも一緒にしばらく固まっていると、猫が動いた。そして。
ぎろり。
いまだに動けない私をにらんできた。
「……ごめん。でもじょうがないじゃん。尻尾にしか手が届かなかったんだよ。」
納得できないらしく、なおもにらんでくる。
「…………ごめんなさい。」
猫は仕方がないというように鼻をならすと、尻尾を私の手から引っこ抜き、今度は横断歩道ではなく、普通の道の方へ歩いていった。
助けたのに、何だ、この仕返しは。
心の中でそうつぶやくと、猫が立ち止まった。
驚きながらもそれを見ていると、猫は、こちらを振り返り、一言。
「……物好きな人間だ。」
うわー。しゃべっちゃったよこの猫。どうしよう。幻覚とか思わないあたり私らしいな。
猫は、道路の脇の木が植えてある花壇に飛び乗ると、とんでもないことを言った。
「この恩、必ず。」
猫は走り去っていった。
私は、呆然としないまでも少し見開いた目でそれを見送った。
「……目痛い。」
別に恩返しとかいいんで、平穏な生活をください。
ため息をつきながら、買い物にきていたことを思い出し前方を見ると。
「あ。……また赤になった……。」
「うん。いってらっしゃい。」
家の前に止めてあったタクシーが、荷物を持った母を乗せて、空港へと発車した。
私の名前は瀬野くるい。そこら中にいる平々凡々の高校生だが、たった今母が父のいるイタリアへと旅立ったため、現在大きな日本屋敷に一人暮らしだ。
七年前、母子を置いて出て行った父はデザイナーだ。もともとは日本で仕事をしていたのだが、世界中でも有名なコンテストに出品した服が脚光を浴び、イタリアを拠点に仕事をすることに決めたらしい。それで、ようやく仕事が落ち着いてきたのだろう。こっちに遊びにこないかという手紙が来た。
父と母は、その手紙が来る前からというか父がイタリアに行ったときからよく文通をしていた。そのことから分かるに、二人はいまだに見ていても恥ずかしいほど仲がよい。だから、私は母だけ父の元へ行けばいいと提案した。父は電話で「なんで!?オレはくるくるのかわいい顔も見たいのに!」とぐずっていたが、私が「いい年こいてふざけるな。二回目のハネムーンだと思って母さんといちゃついてろ。」「あらくるいちゃん。ハネムーンは四回目よ。」といったら、ぶつぶつ言いながらも結局は私の提案に従った。
ていうか母さん。三回もハネムーンにいったのか。大体、いくらロマンチック大好きでべたな展開は最高という思考を持っていても、この時代で文通とかもう娘としてどうすればいいでしょうか。
旅行の期間は三週間だ。やはり家を空けて行くのは気が引けるらしく、夏休みという私が家にいる時期を狙って出かけていった。残った娘が心配じゃないのかと思ったが、そんなことはすでに眼中にないようだった。
母は専業主婦で、時々アルバイトをしていた。父の仕送りで十分母子二人で暮らしていけたからだ。それで、母はいつも家事全般をこなしていた。
つまり、私は何もできない。
料理の手伝いや洗濯ぐらいならやったことがあるが、この家は広い。
この家は、母が先祖代々受け継いできたものらしく、ほとんどの部屋が畳。木製。しかも古いときた。これでは普通に掃除機でとはいかない。問題はここだ。母はいつも私が学校に行った後で掃除をしていた。もちろん毎日掃除をしなければならないというわけではないし、今まで母が掃除をしていたのを見たことがないというわけでもない。だが、見ただけでは全てを覚えることなど出来ないのだ。
………………………………。
「ま、いっか。」
どうにかなるだろ。
とりあえずお昼が近いので、ご飯を作ろう。
昼ご飯を食べた後、夕食と明日の朝食の分の食材がないと気付いて、私は買い物袋を持って買い物に出かけた。お金は十分にある。「足りなくなったら引き出してね。」と通帳と暗証番号まで預かったが、私の母は三週間で百万を使い切ると思っているのだろうか。
歩いているうちに、街の中心部に近づいてきたらしく、辺りに高い建物や店が増えてきた。道もきちんと舗装されている。見た目はごみも落ちていなくてきれいだ。道路の脇に、最近テレビや新聞で問題視されるようになってきた温暖化対策のためか、小さく丸く整えられた木が並んでいる。
向かい側の道に渡ろうかと思って、横断歩道を渡ろうとしたら、目の前で歩行者用の信号機が点滅し始めた。特に急ぐわけでもないので、そのまま立ち止まる。
信号が赤になった。理由もなくため息をつくと、視界の端に、妙なものが写りこんだ。
猫だった。
車通りも人通りも少ない。だから気付いたんだろうし、危ないと思っておさえつけようともしなかった。でも、やはり車は通るし、心配なので見つめていると、猫がとまった。
私の足元のすぐ隣で足を止め、そこに座った。あくびまでしている。きれいな毛並みをした、黒猫だった。背筋を立てて、凛としている。
誰だ、猫は車が来ても止まれないって言ったやつは。
猫は好きだ。両親が無類の動物好きだからかもしれない。この猫の行動が面白くてさらに見つめていると、猫がこちらをちらっと見た。
視線を感じたのだろうか。人間の言葉に例えると、「何見てんだよ。」とでも言わんばかりだ。
とりあえず、もったいないと思いつつも猫から視線を外した。やはり猫も、穴があくほど見つめられると、いごこちが悪いのだろうか。
もうしばらく信号を待っていると、ある事に気がついた。この猫、車が途切れても、渡っていかない。まるで、信号が赤の時は渡ったら駄目だということを知っているようだ。
やっぱり面白い。猫に視線を戻そうとすると、信号が青くなった。
猫が立ち上がって進み始めた。前からも人が向かってくるのが見える。私も行こうと足を踏み出した、その時。
ブブオ―――――――――!!!!
車が見えた。普通の赤色の乗用車だった。信号ぎりぎりに突っ込んできたのだろう。私は意外にも冷静に考えていた。
これがあっちの車線だったら何も言うこともすることもなかった。
とっさにすると、声など出ないものだ。何か言おうとしてやはり出なくて変な言葉が私の口から出てきた。もしかしたらふんばってる声かもしれない。私は、今までにない冷静さと必死さで手を出し、つかめた尻尾を思いっきりこちらに引き寄せた。
ブ―――――――――
車は止まることもせず、もう一度クラクションを鳴らし、そのまま通り過ぎていった。
私は立ち上がりかけているような体勢のまま、足の間らへんにいる猫を、そっと見た。思わず地面に爪を立てたのか、猫も変な格好で固まっている。
周りの人から変な目で見られたが、二人とも一緒にしばらく固まっていると、猫が動いた。そして。
ぎろり。
いまだに動けない私をにらんできた。
「……ごめん。でもじょうがないじゃん。尻尾にしか手が届かなかったんだよ。」
納得できないらしく、なおもにらんでくる。
「…………ごめんなさい。」
猫は仕方がないというように鼻をならすと、尻尾を私の手から引っこ抜き、今度は横断歩道ではなく、普通の道の方へ歩いていった。
助けたのに、何だ、この仕返しは。
心の中でそうつぶやくと、猫が立ち止まった。
驚きながらもそれを見ていると、猫は、こちらを振り返り、一言。
「……物好きな人間だ。」
うわー。しゃべっちゃったよこの猫。どうしよう。幻覚とか思わないあたり私らしいな。
猫は、道路の脇の木が植えてある花壇に飛び乗ると、とんでもないことを言った。
「この恩、必ず。」
猫は走り去っていった。
私は、呆然としないまでも少し見開いた目でそれを見送った。
「……目痛い。」
別に恩返しとかいいんで、平穏な生活をください。
ため息をつきながら、買い物にきていたことを思い出し前方を見ると。
「あ。……また赤になった……。」