ランドセルの神さま
大音響で音楽が響いているのに、死神のつぶやきははっきりと鼓膜に届いた。
「そんなにいいもんじゃなかったですよ」
「そういうとこが勝ち組やねん」
ザキは本当に申し訳なく思い、それ以上話せなくなった。
「お前、黙るなや。生きてる奴に同情されてたら死神もおしまいやな」
「すいません」
「敬語はもうええ。俺ら同い年や」
「そっか」
「いきなりやな。お前にいい事教えたるわ。ミッキーマウスだけは、死神が見えるねん」
「ほんとですか?」
「嘘や」
ザキは膨らませかけた風船が萎むように、体を弛めた。
「ついでに教えたるとあいつらみんな人間で、ようでけた着ぐるみ着てるだけやねん」
「それは知ってる」
「お、ええ感じになってきたな。しかしあれやね、長い間死神やってると流石に飽きてくるね」
「そうか」
「芸能人のおめこも見飽きたし。あ、名前ど忘れしたけどあのフィギアスケートの女の子いるやろ、CMも山ほど出てる、あいつ処女やで」
「えーっ! やっぱり」
「びっくりか納得かどっちやねん。ま、わからんでもないけど。で、今の楽しみ言うたらあの子のロストバージンぐらいやねん」
「そりゃあ楽しみだね」
気が付くと、ザキは死神とつま先を揃えて立っていた。マイクもないのに、低めのスタンドマイクに顔を近付けるようにして、相づちを打っている。
「せやけど実はもうええかな、と思てんねん、きりがないやろ」
「まあ、次々新しい女の子が現れるからね」
「そやねん。しかもちょっと悲しなるねん。なんでか知らんけど女の方に感情移入してしまうねん。童貞やからかな」
「なんかちょっと分かるような分からないような」
「分からんでもええねん。分かるわけないし。兎に角、俺はもうええかな、と思てんねん。もおええわって、大声で言うた瞬間に生まれた家の事やら親の事やら友達の事やら芸能人のおめこの事やらぱあーっと忘れて、本当のあの世に行ける気がしてんねん。そこは〈無〉やねん。空っぽやねん。たぶんそうやねん。なんで分かるねやろ、でも確かやねん。俺はいつかそこに行くし、それは今日ここでやねん」
金管楽器の華やかなイントロが響き、パレードが動き出す。ダンサー達が観客に手を振り、道化は愛嬌を振りまきながら、厳密に決まった歩幅で歩いて行く。
「なあ、あれやってくれへんか?」
「あれ?」
聞きながら、ザキには〈あれ〉が何か分かっている。その心を見透かすように、死神は後ろ向きの観客に向かって、漫才を続けた。
「君そういえば新婚やったね。噂によると奥さんはめちゃくちゃ床上手なんやろ」
「どんな噂だよそれ。料理上手!」
「そうそう料理上手。ちゅうかこれこのまま続けると最後ボケと突っ込み逆になるな」
「まあいいんじゃない?」
「せやな」死神はそう言って、本物の子供のような笑顔で微笑んだ。「旅立つでーっ。で、その床上手な奥さんの」
「料理上手!」
「その料理上手な奥さんの得意プレイってなに?」
「亀甲縛りって、何言わせんのっ! 得意料理でしょ?」
「そう、その床上手な奥さんの得意料理ってなに?」
ザキは両手を腰に充てた。パレードの隊列が、目の前を進んで行く。
「ペペロンチーノ!」
遠ざかるミッキーマウスが、ザキを振り返った。後ろ頭の観客達が、一斉にザキを振り返った。自分の右下方からは、息子の冷ややかな視線を感じる。死神はそれらの光景を満足そうに眺めた後で、目を閉じ、小さな胸を反らせながら大きく息を吸った。
「もうええわっ」
最後の言葉の残響を、ザキだけの耳に残して、死神は視界から消えた。目の前を過ぎて行くカラフルな景色が、ぐにゃぐにゃに歪んでいる。音楽が遠くなって初めて、ザキは自分が涙を流している事に気付いた。誰かが近付いて来て、泣いているザキの写真を撮った。手の甲で涙を拭って息子を見る。ザキが笑顔を見せると海斗は安心し、急に拗ねた顔をした。ザキの手を引き、早足で歩き出す。
夢が終わっても。
お金がなくても。
子供に嫌われても。
生きているんだ。
「ごめんな」
ザキは息子の背中に言った。
「いいよ。けっこうウケてたし」
振り返って、海斗が笑う。
「でも泣くことないじゃん」
「そうだな」
ザキはまた泣きそうになり、日が傾いて赤みを増したシンデレラ城を見上げた。