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ギャロップ ――短編集――

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【パッケージ】



 起抜けの一杯はコーヒーという人が多い中で、毎朝定時に起床して、純ココアと『種別名称・牛乳』で熱々のココアを作る。この一杯のために使われる白い液体に至っては、低脂肪、無脂肪と謳(うた)っている成分調整牛乳や、カルシウム強化なんかの一手間が施された乳飲料などは、全くもってお呼びでない。
 ひょろいのっぽのマッチ棒のような身体をした、血色の悪い男のこだわりだ。

 その日も、コンロに掛けられた手鍋をまばたきもせずに見つめ、沸騰寸前のベストタイミングを見計らっていた。眼光は鋭く、それでいて精彩を放っている。
 マッチ棒は、早寝早起きを座右の銘に掲げ、一日三食、適時適量の食事と、就寝前のストレッチを欠かさない、健康志向の男でもある。それにもかかわらず、年がら年中、24/7(Twenty-four/seven)、病的な青白い顔と肉付きの悪い細い身体に変化はない。

 心身ともに絶好調の時間が、起床から家を出るまでという、スタミナ面にもメンタル面にも難ありなマッチ棒は、玄関の扉を開けた瞬間から、絶不調へ向けて猛進する。
 その日も、薄汚れた皮靴を履き、一歩外へ踏み出すと、田植え前の水田を長靴で歩くような心許ない足取りに変わった。先程まで、生き生きとココアをつくっていた人間と同一人物――とは思えない急変ぶりだ。

 自宅から最寄り駅まで三〇分。自転車があった頃は八分ぐらいの距離だったのだが、過去に三度も自転車盗難に遭い、徒歩三〇分、ほどよく面倒な時間をかける羽目になってしまった。四度目の挑戦をするかどうかは、決めかねているといった様子だ。
 マッチ棒は、くたびれたスーツとみすぼらしいコートでしっかりと身を包んでいたが、ココアで温めたはずの身体はとうに冷えていた。駅間近の橋を渡るころには、ウォーキングによって体温が上がっていてもいいはずなのだが、いかんせん、右肩下がりの調子を持つマッチ棒。夜が明けきらない真冬の橋の上で、吹きっさらしの寒風に背を押され、悪い顔色がますます悪化していた。

 通勤時間帯というのは、だいたい同じ顔ぶれになるものである。毎朝のことなので、そこに会話はなくとも、お互いを見知った安心感がある。
 その日は、そんな顔ぶれの中に、奇抜な新顔が鮮烈なデビューを果たしていた。
 どこで買えるのか見当もつかない蛍光黄色のニット帽を眉の上までかぶり、在るかどうかも疑わしい首と、その上の鼻までを真っ青なマフラーで覆い、跳びはねたら橋が揺れるのではないかと思われる、上下左右に等しく広がった球体の身体を刈り取られた芝を連想させる巨大な緑のコートですっぽりと包んだ、歩く達磨(だるま)がいたのだ。

 そしてそれは、マッチ棒に向かってのっしのっしと近づいてきていた。
 おっさん、おっさん。そんだけ肉が付いていたら、そこまで着こまなくても……。
数少ない通行人全員の心の声が、聞こえてきそうだった。
 この時間に駅とは逆に向かうとは珍しいと思いながらも、マッチ棒は脇によけて道をゆずった。

 しかしながら、ほんの少しだけ足りなかった。
 もう半歩、もしくは橋の欄干に半身を預けるようにして、最大限に空間を作るべきだったのかもしれない。後悔先に立たず。
 下方一〇メートルはくだらないドブ川に放り出されそうな衝撃が襲った後の、マッチ棒の胸中を代弁してみた。達磨とマッチ棒がすれ違ったまさにその時、軽く接触したひじにバネでも付いていたのかと勘繰(かんぐ)るぐらい、見事に跳ねた。もちろん、マッチ棒が、である。

「あら、申し訳ありません」
 口許を覆っていたマフラーが下げられ、とろけるようなソプラノの美声が、吹きっさらしの橋の上によく通った。後から香った、胸やけを起こしそうな甘いパヒューム。
 マッチ棒の数歩後方を歩いていた、サラリーマン風の疲れ切った顔の男も、ピタリと足を止めていた。車道側に身を寄せていた疲れ顔の男と、マッチ棒の目が合う。二人の心の声が聞こえるのならば、男性二部合唱よろしくぴったりとハモったことだろう。
 驚きのあまり数秒固まっていた疲れ顔とマッチ棒であったが、同時に腕時計を確認して、駅に向かって歩を進めた。

 自身の身を守るため、次回は車道側に寄ろうと決めたマッチ棒の決意は、言うまでもない。



◆お題:『早朝の橋』で、登場人物が『騙される』、『ココア』