揺り籠の詩
今日は次のページを見たら帰ろうと紙を指でつまみ、ぞんざいな動作で持っていたページを投げ捨てるように捲る。
目を移した先にあったのは燃え上がるような赤。
嗚呼と、呻くような吐息が達也の唇から滑り落ちた。
「やっとかよ……」
悪態を吐きながらも目は説明文に向かうことなく、自分の記憶を鮮明に映したかのような花の写真に釘付けられている。
真っ直ぐに伸びた緑の茎から出るほっそりとした花弁が、くるりと弧を描いている。いくつもの花が集まってそこから伸びる雄しべがその花をさらに優雅に彩っていた。
花の色は燃えさかる炎の色、温かく吹き出る血潮の色、地平線に沈みゆく太陽の色だ。
あの日の光景がまた浮かび上がりそうになって達也は慌てて説明文に目を移した。
小難しい文章を適当に流して読んでいたが、群生するという言葉に達也は目を留めた。
確かに、夢の中ではいつでも視界の端にこの花がいくつも咲いていた。
咲く時期もやはり事件前後、つまりこの時期ということだし、間違いはなさそうだ。
中学校の図書室には残念ながらコピー機などという気の利いたものは置いていないので、ノートの切れ端に花の名前を書いて図鑑を閉じた。
用の無くなった図書室から出る。
放課後の学校は昼間の騒がしさとはうって変わり、しんっとした静けさがある。
音といえば校庭から聞こえる運動部の声と自分の足音ぐらいしか聞こえない。
異空間に紛れ込んでしまったような居心地の悪さを感じて、達也はそうそうに自転車置き場へと向かった。
自宅に帰って来てから真っ先にパソコンに向かう。
インターネットで調べてプリンターで印刷しようと、検索ワードに花の名前を入れた。
出てくる殆どは真紅の花の写真だったが、その中でいくつか白や黄色の花があった。
「違う色のもあるのか……」
群生しているとのことだから他の色も赤い花と一緒くたに咲いているかもしれないと、ついでに印刷してクリアファイルに挟み込んだ。
この時期だし母親が心配するかもしれないと思いながらも、達也は私服に着替えクリアファイルを入れた鞄を持って立ち上がった。
リビングのテーブルの上に出かけてくる旨を書いたメモを置き、自転車の鍵を掴んだ。
スニーカーに足を入れながら何処へ向かうべきかと考える。
子供の足で行ける場所だからそう遠くはないはずだ。
本当ならもう一人の被害者である少女に場所を聞くべきなのだろう。
当時のことを覚えているとすれば、当然場所のことも知っている可能性が高い。
だが達也はあの幼馴染の少女が恐ろしかった。
無垢で純粋な瞳で残酷な現実を突きつけようとする彼女が、とても恐ろしいもののように感じられていた。
自転車を漕ぎ出す。
顔に吹き付ける空気が冷たくなってきた。
もう大分秋も深まってきたということだろう。
枯草の目立つ空地に目をやるが鮮やかな赤は見当たらず、結果は芳しくはない。
近所の空地自体そう多くもないのだが、赤い花の咲いている空地というものは見つからない。
何故探しているのか、何を探しているのか、彼自身にもわからなくなってくる。
『ゆうくんはママにさされちゃったもん』
たとえばその言葉が事実だろうと間違いだろうと達也には確かめる術などない。
だったら、目を瞑ればいいじゃないか。
今までと同じように、何もなかったのだと。
達也は自転車を止めた。
赤く染まりゆく空がもの悲しげだった。
もう一度だけ見て回り、それでも駄目ならば帰ろうと彼は進み始めた。
視線を巡らせていると、斜陽に照らされ赤く染まった街灯の柱に気付く。
本来の色は白なのに、夕焼けの色を映してその身の色を変えている。
達也は自分の思い違いを知った。
赤い花を目印に探していたが、例えばそれが本当は白い花だったら、夕焼けに照らされて赤く見えていただけだったとしたらどうだろうか。
赤ではなく白い花の咲いた空地だったら見かけた覚えがあった。
花の形は見ていなかったのだが、もしそれが同じ花だとしたら?
地平線の向こうへと日が沈む前に辿り着いた場所には、確かに赤い花が咲いていた。
この時間しか見ることのできない、太陽の色を写し取った花が。
「ここが……」
兄の血を吸った地を、彼はようやく見つけた。
場所を見つけたからといって達也にはどうする事も出来ない、またどうする気もなかった。
警察にはちゃんとした資料もあるにも関わらずわざわざ自分で調べたのは、所詮自己満足に過ぎなかったのだ。
現場に辿り着いた彼は過去に思いを馳せ、そのまま静かに家路に着いた。
「ただいまー」
悪夢は未だに訪れるが、彼は何処か静かな気持ちでそれを迎え入れられるようになった。
現場を発見したあの日に薄れかけていた記憶が補充されたようで、夢は細部まで益々鮮明になっていった。
犯人の姿だけを残して。
学校から帰宅した達也は学ランの名札が外れかけていることを思い出して裁縫箱を探し始めた。
名札はプラスチック製で名前と学年の色が刻まれている。
達也の学年は緑だ。
冬服の胸ポケットに付けておくよう校則で決まっている。
母親の手を煩わせずとも、家庭科で習ったので簡単な裁縫程度であれば達也にも出来る。
裁縫箱が置いてある筈の、ちょっとした倉庫代わりに使われている一階の部屋を漁る。
目的の物は確か取っ手の付いた木製の物だったはずだ。
何処にあるのか母親に聞いておけばよかったと思いながらも達也は部屋の中を探る。
暗い部屋の中には古いベッドや大きい和箪笥、小さくなって着られなくなった服などが無造作に置いてある。
ここは昔、祖父の部屋であったらしいのだが、達也が生まれる前に亡くなっていたため写真でしか顔を見たことがない。
会ったこともないので詳しいことは知らないし、特に知る必要もないと達也は考えている。
死人について思いを馳せることは悪いことではないが、忘却に抗おうとするのは愚かである。
達也とて、夢にさえ出てこなければ兄のことはもっと早くに忘れていただろうし、兄の死について考えるとこもなかっただろう。
裁縫箱を探しているうちに、段々宝探しをしているような気になってきた。
探せば探すほど、昔気に入っていた玩具やプラモデル、古い漫画やアルバムなどが出てくるのだ。
当初の目的も忘れかけて部屋の中を漁って回り、部屋の隅に置いてある箱を何気なく開いた。
中に入っていたのは何かの布切れだった。
よくよく見れば何か細長いものが布に包まれているようで、達也は好奇心に任せてその布を解いた。
そこにあったのは至って普通の包丁だった。万能包丁と呼ばれる一般家庭の台所に置いてある、何の変哲もないものだ。
完全に布を解いて黒い柄の部分を握ってみると、達也は違和感を覚えた。
やけにざらついている。
だがそれ以外は普通の包丁にしか見えない。
せいぜい少し錆びているだけだ。
首を捻りながら包丁を戻そうとした時に、達也は気付いた。
兄の殺害現場から凶器は発見されていない。
そして、殺害に使われたのはナイフ、もしくは包丁のような刃物である。
そして思い出したのだ、幼馴染の少女が、あの場所にいた少女の言葉を。
『ママにさされちゃったもん』
彼女の言う『ママ』とは、一体誰の母親のことだ?
「ただいまー」
玄関のドアが開く音がする。