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恋に似ている

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「確かサイド・カーだったかと。ブランディ・ベースなんですけど、少し是枝様には甘かったかも知れませんね」
「そうだな、今日はもう少しシャープなのにしてもらおうか」
「ではギムレットを。ジン・ベースですが、よろしいですか?」
「まかせるよ」
 カクテルから始まった会話は、
「この前、付き合いでクラシックのコンサートに連れて行かれた」
「クラシック? お好きなんですか?」
「いや、俺はロックの方が好きさ」
「ロックですか? 何だか是枝様のイメージじゃないなぁ」
「俺のイメージだったら何なんだ?」
「そうですねぇ、ジャズとか、それこそクラシックとか」
好きな音楽などの趣味の話や、
「銀座の『レ・リーフ』の魚料理が美味いぞ」
「『レ・リーフ』? 三ツ星じゃないですか。そんな堅苦しいところ、俺には行けませんよ」
「いつもどんな所で食事してるんだ?」
「近所に安い中華料理屋が出来て、今はそこに入り浸ってますよ。ギョーザがとにかく美味くて、冷たいビールによく合うんです」
どこそこの料理が美味しいとか、そんな他愛もないことを話しているようだった。
 長く続くようでもなく、かと言って短く切ってしまうでもなく。ほどよい会話に、珍しく孝正の表情は柔らかだった。環ちゃんも――私は彼をこう呼ぶ――手が空いているようなら、孝正の前に立った。孝正が顔を見せるのはたいてい午前零時前後、終電の兼ね合いもあって、客の一番少ない時間帯なので、相手をし易いってこともあるだろう。
 孝正は仕事の顔を持ち込むようなことはしなかったけれど、それでもほんの時折、疲れや険しさをまとって口数が少ない日もあった。それを見てとると環ちゃんは黙ってカクテルを作り、無理に言葉をかけることはしなかった。
「環はお茶の誘いにも乗らないって聞いたけど?」
「ポリシーなんです」
「それはなぜ?」
「公私混同は嫌だから」
「なるほど、それであまり話もしないのか。俺とは比較的、話してくれるな?」
「是枝様は暇な時間にいらっしゃるので」
「それが計算してのことだったら?」
「え?」
「環を独占したいから、時間を選んでいるんだと言ったら、どうする?」
 孝正は『ヴォーチェ・ドルチェ』にいる時間を、穏やかに過ごした。小さい頃からを知る兄の私でも、滅多に見たことがないくらい素のままで。その目は時々、環ちゃんを追っている。シェーカーを振る姿や、別のお客のオーダーを受ける様子や、チョコレートを皿に並べる仕草を、優しい眼差しで、とても楽しそうに――孝正は、環ちゃんに惹かれ始めている。多分、環ちゃんも気づいているだろう。
「面白い冗談ですね? では光栄だと、お答えしておきます」
「巧いな?」
「慣れていますから」
「ふふ、今のところはそう言うことにしておくさ」
 孝正は欲しいものは必ず手に入れるし、今まで取りこぼしたことがなかった。時には強引に出ることもある。飴と鞭を使い分けて、駆け引きを楽しむことも。そして本人は気づいているかどうかはわからないけれど、手に入れた後には興味を失い、顧みないことが多い。その最たるものが結婚。財閥の一隅に揺るぎない地位を確保した今では、心は妻のどこにも存在しない。だいたい、最初から心なんて存在したのかも怪しいところ。私には、「将を射んとすれば、まず馬」としか見えなかった。それでも家庭人としては完璧にこなしているようなので、奥さんは感じていないかも知れない。お嬢さん育ちらしいし。
 環ちゃんはわかるだろうか?
「孝正は計算高いところがあるから」
「あはは、わかってますよ。是枝さんはぼたんさんの弟さんだけど、ここのお客様じゃないですか。それ以上でもそれ以下でもないです」
 彼は一笑に付した。いつもと変わらない調子。頭のいい子だから、一線を越えることはないと思う。でも、心の中まで覘くことは出来ない。彼の本心がどうなのか、私には計れなかった。ただ孝正と過ごすひと時を、環ちゃん自身は悪(にく)からず思っているように見えた。
 そして孝正にも、今までの「欲しいものは必ず手に入れる」的な強引さはなく、『ヴォーチェ・ドルチェ』での時間に自我を持ち込むことかはなかった。
 やがてヨーロッパのグループ支社を統括する本部を新しくドイツに設立するとかで、準備責任者として孝正が赴任することになった。
 発つ前日の夜、姿を現した孝正は、いつものように二、三杯のアルコールを口にして、これと言って特別な言葉も残さずに帰って行った。




「孝正、あなたったら、いつ帰ってきたの?」
「一ヶ月前。どうでもいいようなことに時間を取られて、ここに来るのが遅くなった」
 ある日の夜、突然、孝正が顔を見せた。一年半、いえ二年近くぶり。
 ヨーロッパに赴任している間、ただの一度も彼は連絡を寄越さず、実の兄でありながら、私は弟の帰国を経済新聞で知った。彼の所属する是枝グループが、ヨーロッパ支店の統括本部をドイツに置くことによって、更なる飛躍をとげること間違いない…とあり、その土台造りとEU経済界での存在感を示すのに、孝正がかなり重要な役割を果たしたのだと、記事は締めくくっていた。
「ますます偉くなったのねぇ」
「当然の結果だ。それだけのことはやってる」
 不敵な笑みを見せる。『ヴォーチェ・ドルチェ』では初めてかも知れない仕事の顔。だけどそれも、すぐに消えた。
 来て早々、指定席にしていたカウンターの席に彼が座ると、環ちゃんがオーダーを聞くために前に立つ。
「レパートリーは増えたのか?」
「たいして。是枝様のように、難しいものをオーダーなさる方は少ないので、十分、こと足りているんです」
「じゃあせいぜい目新しいものをオーダーして、環を育てるかな」
「お手柔らかに」
 年月の隔たりを感じさせない。時間は一時止まっていたに過ぎず、また動き出したのだ。
 心配しないではないけれど、二年前と違って環ちゃんの周りには、孝正以外にも『人』が増えた。若いピアニストに、小説家に、大学時代の後輩――孝正の入り込む余地があるかどうかはわからないし、私としては孝正を選んで欲しくない。きっと傷つき、どちらも失うものが大きいから。
 でもヴォーチェ・ドルチェでの時間は孝正には必要だわ。出来れば今のままの距離でいて欲しい。
 恋に似た優しい時間のままで。



作品名:恋に似ている 作家名:紙森けい