優しい弾丸
何時如何なる時にも冷静で、己をわきまえることを叩き込まれてきたアペトゥムペの頭の中は、初めて虚無の空白に支配された。取り返しのつかないことを、自分は行ってしまった。それだけが、脳内に浮かんだ。倒れゆくムニンの体を支えることもできず、木偶坊のようにそこに立ち竦んだ自分を、彼は覚えている。
その傷跡は、アペトゥムペのそれでもあった。何度か呼び寄せては、治療を試みた。だが、無残にも腐りゆく傷口を、阻むことは叶わなかった。自分の浅はかな行いのせいで、今大切な部下の一人が命を落としていこうとしている。自分はそれを見続けることしかできない。だが、不思議と、死の恐怖は浮かんでこなかった。ムニンも極めて穏やか顔をしていた。彼らは彼岸に立っていた。そこはゆるやかで、心地よい風が吹き、痛む傷痕さえも香しく、傍に佇む戦場の命のやり取りさえ、ただ頭をすり抜けていく花びらのようなものでしかなかった。死の世界を知ってしまった者。それが二人の共通項だった。精神の内に、彼らは双子のように感じ合っていた。
「この、痛みさえ、誇らしく…私は一生の内に、ただ一つだけ、他人の為に、生きることが、できました。その事を、光栄に、思っております。ああ、隊長。最期に見ることが、
できたのが、隊長のお姿だと…私は、悔い一つ、残って、おりません。」
それが最期の矜持であれ、皮肉であれ、アペトゥムペへの気遣いであれ、違いはなかった。アペトゥムペは初めて、自分の命に価値があるのだと知った。軍人である以上、いつ、誰の為であろうと、命を落とす覚悟をしてきた半生だった。責務と母国への誇りの為に、命を捧げると。しかし、守るべきはずの者に、守られたこの命が、唐突に、尊いものだと感じられた。
そう感じた瞬間。心の底からの叫びが、発せられた。
「死ぬな!」
ムニンは力なく瞳で笑った。
「逝かせて、下さい。私は、隊長を、お守りした後は、一人静かに眠ることを、心待ちに…。」
「やめろ!俺が何とかする!諦めるな!」
「私の、最期を、綺麗なまま、残して、おきたいのです。ただの、人殺し、ではなく。私にとって、貴方は、軍神…神そのものでした。その人の為に、死ねる。これだけの、人を、同じ人間を、殺めてきた、私が。」
彼は小さな微笑を緩めなかった。確かにアペトゥムペは部下を指揮した。しばし命の危険に関わるような作戦も行った。だが、それはあくまでも役目の問題だと考えていた。自分は軍隊に携わる人間として、八番隊長を任され、それに相応する部下を与えられた。それは全て戦の為であり、人間としての上下関係など皆無だとさえ、思うことのできる人間だった。だが、人を殺めるという点においても、自分達は同列だったのだと、彼は痛感した。
自分は、部下を使い人間を殺す為の指示を行ってきたのだ。恨まれることすらあれ、神のように崇められるとは。彼は突然、アシケペチを思い出した。英雄と、讃え続けられた男。自らの手を汚さずに、大量虐殺を行った、ただの人間。
「…戦争では、幾ら人を殺したかで、その人物の価値が決まる。おまえの言うような、崇高なものではない。ただ、おまえらが俺を信じてくれたから、俺は自分を見失わずに済んだ。命は守り育むべきものだ。愛しみ、慈しむことで初めて命の価値が決まる。人と、命。この違いがおまえには分かるか?」
「隊長の、言う事は、いつも、難し過ぎて、よく、分からない…。」
「おまえは俺の命を守ってくれた。俺の生を繋げてくれた。人として、俺は最低な人間だ。どれだけの兵士を殺してきたか分からない。敵も、失策による味方も…けれど、おまえが守ってくれたこの命がある限り、生きることができる。俺はおまえから自分の命の重さを教わった。おまえの命は俺にとって、兵士として、一軍人として、レプンソ国民として、そして一人の男として、何よりも尊く価値のあるものだ。」
ムニンは力なく頬を緩めながらも、その瞳の奥は既に暗く終幕の影が覗いていた。
「価値とか、そういう、ことは、分からないです。私は、隊長を、ただ守りたくて。人からの、評価なんて、いいんです。隊長は、いつも、頭で、考え過ぎるんですよ…私は隊長を、お守りするという、大事を成し、隊長は、この戦争を、生き延びた。…それだけ。それだけで、いいんです。ただそれだけで、私は、こんなにも、幸福に、満たされるのですから。」
それ以上、アペトゥムペは言葉を繋げることはしなかった。ムニンの世界は見事に完結してしまっている。自分が何を言おうと、この死にかけた悟り人には通じないだろう。その境地を、自分は知らないから。それこそ、ムニンと同じような経験をしない限り。ムニンが言うように、自分が軍神であったなら、彼はムニンのような兵士こそ生かそうとするだろう。そして、自身のような最後まで真実を見抜けない愚かな指揮者を生の舞台から排除するだろう。生きてほしい。その思いが強烈過ぎるあまり、錯覚してしまいそうになる。戦場で兵士達が死を操れるのならば、神は人に生をも操れるようにして下さったら良かったのに、と。真に価値ある命だけを、次の世代へと繋ぐ為に。
アシケペチに教えてほしい。自らの手を汚すことなく、しかし己の指揮で大量の殺人を行った、その心境を。そして、その敗北の結果を。それは、アペトゥムペが今一番知りたい事だった。何故なら、彼もそうして部下を失っていったのだ。貴方は泣いただろうか。嗚咽に咽喉を詰まらせて、蹲っただろうか。それとも、皮肉に笑ったのだろうか。己の元に訪れる、あまりにも桁違いな死者の遣いに、彼は何を感じ取ったのか。
「隊長。ありがとう、ございました。感謝、しています。貴方の、部下に、なれて、良かった。貴方を、助けることが、できて、良かった。こんな、未熟者の、私でも、できることが、あった。レプンソ、万歳…。」
しばしの間があり、そうしてムニンは息絶えていった。どこまでも、安らかな死であった。自身と共に、この戦争の終幕を引いていったかのような。彼は自分が言うように幸福であったのだろうか。今は、答えはイエスだと感じた。守られた命がある。守った命がある。そうして庇い合って人は生きてゆく。それは、戦場だけに限らない。
ムニンの閉じた瞳を打つ雨が、次第に柔らかくなり、段々と止んでいった。太陽が、西の雲の隙間から顔を見せる。光に包まれた彼の死に顔は、あまりにも無残で、そして美しかった。
ムニンは、アペトゥムペを守ることができて感謝している、と言っていた。彼は人を守ることの尊さを、知るよりもまず感じていたのだろう。アペトゥムペは考えもしなかったことを。
自分とて部下を守ろうとはした。それはただ、死者を出したくない、無駄な死を回避させたいという思いからだった。命の尊さよりも、部下の数として念頭に置いていた。
ムニンのような兵士こそ、孤高の人間である。