優しい殺意
妹の結婚は町中に知れ渡っていましたから彼も納得したように頷きました。
きっと私から二人へ贈り物をするとでも思ったのでしょう。
『気をつけるんだよ』
『わかったわ』
そう答えて、私はあの人の下へと歩いてゆきました。
妹を連れて。
あの人の家は私たちの家とは比べ物にならないくらい大きく豪奢でした。
ドアを二、三回叩くと、あの人が中から出てきました。
彼を酒場で見かけてからずっと飲んでいたのでしょう、アルコールの匂いが鼻をつきました。
『こんばんは』
あの人は戸惑いながらも返してきました。
『やぁ、随分と汚れているようだけど、こんな時間にどうかしたの?』
私は何も言わずバスケットを示しました。
彼は妹からのプレゼントだと思ったのでしょう、あっさりと私を家の中に上げました。
『中は何なんだい?』
『自分で見てみたらいかが?』
それもそうかとあの人はバスケットに掛けられている白い布をそっと外しました。
『うわあぁぁあ!』
あの人は中を見るなり床に尻をつけて、後ずさりしました。
こんなにも美しいのにと、妹の顔を見ながら思ったことを覚えています。
『な、なんだよ……、それはなんなんだよぉ!』
私はひどく悲しい気持ちになりました。
永遠の愛を誓い合ったその日に、妹の顔を見てそれ呼ばわりするなんて、何て薄情なのでしょうか。
でも、それを私は黙認しました。
青ざめた顔で震えるあの人を見ていて、彼のことが哀れになってきました。
『健やかなる時も、病める時も』と二人は神の前で誓ったのです。
ならば、やはりこの哀れな人を妹と同じ所に連れてゆかねばなるまいと、私はその時思ったのです。
永遠に二人が共にいることを望んだのですから、それは死した後でも変わりありません。
それまでは自分でも何故ナイフを持って来たのかが不思議だったのですが、妹が死んだナイフであの人が命を落とすこと、私の中ではそれが重要だったのです。
バスケットから赤く濡れたナイフを私が取り出すのを、あの人は麻痺したように見ていました。
ナイフが振り上げられる様子をただただ目で追っていました。
それが自分の胸に刺さった時、あの人は漸く自分の現状に気付いたようでした。
呆然と胸から突き出た黒い柄を見て、かたかたと震えだしました。
『あ、あ、あ……!』
ナイフを抜こうとする彼の手ごと黒い柄を彼の体に押し込みました。
あの人は縋るような瞳を私に向けて、青ざめた唇を開きました。
『いやだ……、しにたくない、いやだ……!』
『どうして? 貴方は言ったでしょう? あの子を幸せにすると、私に約束してくれたでしょう? だから貴方は逝かなきゃいけないのよ。あの子が寂しくないように』
子供のように私の腕に縋りつき首を横に振り続けるあの人を見続けることは私にとってつらいことでした。
ですが私はそこから動かず、ただあの人を見つめていました。瞳からやがて光がなくなり、手から力が抜け、指先が冷たくなってゆくあの人を、私は瞬きも忘れて見入っていたのです。
体を支えることも儘ならないのでしょう、あの人はゆるゆると床の上に倒れました。
私はあの人の首筋に手を当てて、鼓動が止まる瞬間を確認してから、バスケットの中にある妹の首を抱えました。
そして頭に浮かんだ歌を口ずさみました。
それは昔、母が歌ってくれた、そして幼い頃に私が妹に歌った子守唄でした。
遠いところで誰かの悲鳴が聞こえましたが、私にはもうどうでもよかったのです。
妹がいて、あの人がいて、私はその時確かに幸せを感じていたのですから。
誰かに妹とあの人と引き離されてしまうまで、これ以上ないくらいに、私は幸せだったのです」
エリオットは軽い好奇心で彼女の話を聞いたことを後悔していた。
牢の中で優しく微笑む彼女の心は、きっと真っ直ぐに歪んでしまっているのだろう。
妹への愛と男への恋の狭間で揺れて、本人も気付かない内に壊れてしまっていたのだ。
狂ったと判断されて村八分にされる人間は何処の町にもいる。
しかしここまで優しい狂気を、エリオットは見たことがなかった。
海よりも深い沈黙が二人の間に横たわる。
彼女の視線が顔に集中していることに気付き、話を聞いている間に忘れていた、今自分がいるのは牢屋だという居心地の悪さをエリオットは今更ながらに思い出した。
不意に彼女が唇を開く。
「貴方はどちらの出身ですか?」
「……生まれは隣の小さな町だよ。最近帰ってきたばかりでね、実家にも顔を出していない」
「そう……この隣の……」
彼女は何か納得したように呟いた。
エリオットが疑問の声を上げる前に彼女は再び問いかけた。
「ご家族は? 最後に連絡を取ったのはいつ?」
いきなりの質問にエリオットは戸惑う。
「なんでそんなことを?」
不意に彼女は酷く艶やかに微笑んでみせた。
「いいえ、少し気になったものですから。ねぇ、貴方にお兄さんはいらっしゃいませんか?」
エリオットは凍りついた。
彼には一人、兄がいる。決し性格がよいとは言えない男だが、外面と要領だけはいい男だった。
大人の前で猫を被るのが得意で、そんな兄を持ったエリオットの幼少時代は散々だった。
兄はエリオットが家を出た原因の一端を担っている男だ。
今頃は父親の跡を継いで町の相談役でもやっているだろう。
「何を……言って」
「ねぇ、この半年の間にご家族と連絡を取りましたか?」
最後に連絡を取ったのは、丁度半年程前のことだ。
久々に手紙を送るとすぐに返事が返ってきた。
あの手紙の最後に書いてあった言葉はなんだったろうか。
咄嗟のことでエリオットには思い出せない。
何か重要なことがあった気がするというのに。
「貴方のご家族は、今もご存命ですか?」
白い羊皮紙に書かれた、右上に傾く癖のある神経質そうな父親の文字。
内容はいつもと同じ、早く帰ってこいというものだった。
いつまでふらふらしているのかと、息子を心配する父親らしい手紙だった。
「あの人は貴方のように栗色の髪だった。あの人は貴方のように、優しい眼差しをしていた」
彼女は人形のような虚ろな瞳で、口元の笑みだけを深める。
エリオットは必死に記憶を辿った。
あの日、珍しく手紙の最後に追伸があった。
そう、確かその内容は、
「もう一度お聞きします。貴方、お兄さんはいらっしゃいませんか?」
兄の、結婚。