優しい殺意
何のことなのだろうと気になった私は、酒場のドアの前でしゃがみ込んで靴をいじっているフリをしました。
声は続いてこう言いました。
『先に姉ちゃんの方を誑(たぶら)かして、結局は可愛い妹ちゃんの方をしっかり持っていきやがってよ!』
……頭を何かで殴られたような衝撃が私を襲いました。
姉を誑かして、妹を持って行った。
彼は確かにそう言ったのです。
男達の笑う声が聞こえてきます。
『しっかも、お前結婚しねぇと姉ちゃんのことを俺らに襲わせるって妹ちゃんのこと脅したんだってぇ? 悪い男だなオイ!』
酒場が笑い声で更に賑やかになりました。
それとは反対に、私の心は段々と冷えてゆきました。
妹を幸せにしてくれると言ったあの人を信じたい気持ちと積もってゆく不安とで壊れそうになりました。
せめて、あの人が何か言ってくれればと願いました。
あの人が否定してくれれば私はそれを信じることができたのです。
『酷いなあ』
あの人の声が響きました。
『ただの駆け引きだよ、俺は何も悪いことなんてしてないさ。……まあ、俺が結婚しなかったらお前らは多少いい目が見られたかもしれないけどな』
酒場がにわかに沸き立ちます。
私はその時、心が凍りつくという感覚をはじめて知りました。
……それからどうやって帰ったのかは覚えていません。
ただ、家の前に着いてからふと店に買った物を置いてきたことに気付きました。
しかし取りに戻るほどの余裕はありませんでした。
もう何もかもがわからなくなっていました。
妹に話を聞かねばならないとそれだけを思い、私は家の戸を開きました。
室内は暗く、妹はまだ帰ってきていないのかと首を傾げました。
とりあえずランプの明かりを点(とも)そうと家の中央にある食卓に向かって歩きました。
途中で足に何か柔らかいものがぶつかりました。
床に何かを置いた覚えはなかったので疑問に思いましたが、視界がはっきりしないことには何があるのか確認することもできません。
私は手探りでランプを掴むと、スカートのポケットに入れてあったマッチで火を点しました。
さて足元にあるものは何なのかと、ランプで照らしました。
……最初に私の目に飛び込んできたのは足でした。
白いヒールを履いた足が二本、床にきちんと並んでいました。
そのヒールに私は見覚えがありました。
妹が式で履いていたものにそっくりだったのです。
足の先には胴体もありました。
白いドレスを着ていました。
もうここまでくればわかると思います。
床に横たわっていたのはウェディングドレスを着たままの妹だったのです。
しかしその中で異質なものが一つだけありました。
仰向けに横たわった妹の胸と垂直に、黒い棒が突き立っていたのです。
いえ、よく見るとそれは棒ではありませんでした。
妹の胸からはナイフの柄が生えていたのです。
妹の両手はナイフの近くで重ねられていました。
ランプを置いて、床に横たわる妹に触れました。
肌は真冬の水のように冷たいのに、柔らかな感触が人形でないことを私に教えました。
同時に、もう彼女が死んでいることも。
ランプの光に照らされて、死して尚美しい妹は何処か作り物めいて見えました。
妹は……自殺だったのか他殺だったのかは今でもわかりません。
しかし彼女が自らの意思で死を選んだということだけはわかりました。
そうでなければ、あんなに穏やかで悲しい顔をしているはずがありません。
すべてが作り物に見える中で、触れている感触だけが私を現実に繋ぎ止めていました。
酒場で聞いた話が本当だとしたら、妹はなんと哀れな子なのでしょう。
姉を盾に取られて姉の恋人に結婚を迫られ、好きでもない男に嫁ぐことを拒否することもできず、冷たい床の上で人生を終えてしまうだなんて……。
自然と私の目からは涙が流れました。
私があの人を好きにならなければ、私があの人を妹に会わせなければ、私が妹の異変に気付いていれば……、後悔は尽きることがありません。
どれ程の時間が経ったでしょうか、涙は枯れ果て、私はただ人形のように美しい妹の髪を撫でていました。
ふと、思いついたことがありました。
妹はもう結婚しているのです。
あの人の下に連れてゆかねばなりません。
そう、たとえ死んでいようとも。
私はまず、妹の体を両腕で抱えてみましたが、自分よりも軽いとは言え、そのまま連れてゆくには少々家と家との距離がありすぎました。
ではせめて妹の一部を持って行こうと思い、私は妹の体を再び横たえ、その胸に刺さっていたナイフを抜きました。
刃には赤い血がこびり付いていました。
私はナイフを振りかぶりました。
銀色の輝きが妹の首に吸い込まれてゆきます。
ナイフを振り上げては突き刺して引き裂く、何度も何度も私はその動作を繰り返しました。
赤い液体が顔に、ナイフを握る手に、服にと飛び散りました。
妹のものなのだと思うと、それすらも愛おしく思えました。
凶器を握った手を振り下ろす度に肉の千切れる粘着質な水音が響きました。
十回も繰り返した頃でしょうか、ナイフが止まりました。
硬いものに阻まれています。
それが骨なのだと気付き、これ以上はナイフでは分断できないことに思い当たりました。
少し思案した後、私はナイフをランプの近くに置いて、外に出ました。
太陽は既に姿を隠し空は暗く、厚い雲に覆われて星や月の光すら見えません。
家の戸の横には父がかつて使っていた斧が置いてあります。
私は斧を両手で引きずりながら家に入ると、ナイフよりも重みのあるそれを力一杯振り上げました。
重力に従って斧を下ろすと、小気味良い音を立てて妹の頭と胴体とを繋いでいた骨が折れました。
首だけになった妹を抱きしめて、テーブルにあったブラシで蜂蜜色の髪を何度か梳かしました。
こびり付いていた血が乾燥して粉末状になり、ブラシを通すと髪から離れていきました。
そのままでも美しい妹の顔をもっと綺麗にしたくて、飾るものを探していた私の目に入ったのは胴体の近くにある真っ赤な水溜りでした。
白いドレスもその水溜りに漬かって、すっかり赤く染まっていました。
髪に付いたのと比べて量が多いせいか、まだ乾いていないそれを私は指で掬い取って、妹の唇に塗り付けました。
口紅の代用になると思ったのです。
真っ赤なそれは鮮やかに妹を彩りました。
私は妹の頭を野菜やパンなどを入れるバスケットに入れました。
私は不意に思い立って、桶に入れて置いたブーケの花を妹の周りに敷き詰めました。
やはり妹には花がとてもよく似合いました。
満足した私は黒い柄のナイフもバスケットの中に入れてから、白い布を被せました。
私は妹の血を身に纏ったまま、バスケットを腕に持って暗い夜道を歩いてゆきました。
途中で人にすれ違い声を掛けられることもありましたが、暗かったせいか血に濡れた私の格好に気付く人はいなかったようです。
『こんな遅くに何処に行くんだい?』
見覚えのある男性に尋ねられて私は持っていたバスケットを掲げて見せました。
『ええ、ちょっと妹たちにね』