飛び梅の追憶
「誰かの姿をかりないと、この形をとることはできない。いきているものの姿をかりるのはしのびない。そこに、きみの弟君は丁度良かったのだ」
少年は言って、弟の着物の袖を払った。紅姫は手の平の中で形を変える花弁が唐突に気持ち悪くなって、同様に払う。少年はそれを眉をしかめて見たが、咎めはしなかった。
丁度良い、とは、都合が良かったということだろうか。隈麿の死が丁度良かったとでも言うのだろうか。恐らく少年に他意はない。けれど、そう思うと紅姫は腹立たしくなって、乱暴に土を掴みながら少年を睨みつけた。
「どうして、隈麿の姿にならなきゃならないの。だまって、咲いていればいいじゃないの。花はそういうものでしょ」
本当のところ、紅姫は、もう、弟の姿を見るのが嫌で仕方ないのだった。
ここのところ、紅姫は弟が本当に死んでしまったのかどうかすら覚束ない。花の季節になればなるほど色濃く現れるようになった弟の形をした梅のまぼろしは、酸い匂いと共に紅姫を苛んだ。梅の扮する弟の影が濃くなればなるほど、紅姫の記憶の弟の影は薄まっていく気がしてならなかった。
確かに、息をしていなかった。確かに、埋葬した。紅姫だって、初めは呆然としていたけれど、最後には泣いてしまったのだ。そうして一度受け入れた筈のものを掻き回して、しかし許される理由が梅にはあるというのか。
「話をしたかったから」
少年がまた新たな花弁を拾い上げ、ぽつりと呟いた。少年の手に触れられると、途端にしなびた花弁が瑞々しくなるように見えて、紅姫はいけないものを見てしまったように目を逸らしてしまう。
「こうでもしないと、人とはなせないのだ。けれど、」
思い出したように、風が吹き降ろしてきた。地面に散る花の残骸をまとめて巻き上げ、梅の香りと一緒くたに頬を叩く。はっとして紅姫は顔を上げた。少年はちっとも紅姫を見ていなかった。
「けれど、私が話をしたかったのは、きみではなかった」
何故、あの人にはみえなかったのだろうな、と梅が言うので、紅姫は逆に聞き返した。
「どうして、わたしには見えるの」
「こどもには見えてしまうことが多いのだ」
少年が諦めたように笑った。生前の弟の、紅姫は知らない顔。
「もしかすれば、あの人は京の私とも言葉をかわしたことはなかったのかもしれない。けれど、私はたしかに好きだった。あの人も私を好きであるはずだ」
言いつつ、少年がゆるりと立ち上がった。小さな指で背後の木から伸びる枝を手折り、紅姫にそっと歩み寄ってくる。一歩踏み出すごとに梅の匂いが増し、気配が濃くなる。紅姫は動けずに、少年を黙って受け入れた。肌に触れる空気という空気が全て梅の色に変わってしまった気がしてならなかった。
「紅姫、あの人のかわりに、これをうけとってくれないか」
まぼろしの指が、紅姫の髪を梳いた。もう片方の手が握る枝先には、最後の一つがそっと咲いていた。五枚の花弁に包まれて、いくつものおしべが首を伸ばしている。何と、何と慎ましやかな花だろう。
「きみが私を見ることができるのにも、意味があるのかもしれない」
髪を掻き揚げられて、耳の上にそっとその枝を差された。梅の匂いが身体中に沁み込んでくる。紅姫は逃げられない。少年は逃がさない。耳元でごうごうと風が鳴っている。今日はこんなに風の強い日だっただろうか。
「その花は手土産だ。私の花を、香りを忘れるなよ」
忘れるものか、と答えたいのに、口の中さえ梅で満たされているので思うように言葉が出てこなかった。紅姫は弟の顔を見つめる。微笑んでいる。この顔は少し見たことがあるかもしれないと思った。枕元に外で拾ってきたものを並べると、大きな声で笑う元気のない弟は、それでもゆっくりと笑ってくれるのだ。
「私はもう、きみの前にはあらわれない」
少年は言って、元気で、と紅姫の頭をまるで子供のように撫でる。そうして、次に指が離れたときには、少年の姿はどこにもなかった。小さな梅の木は殆ど花を散らせてそこに立っているだけだ。風の音も止んでいる。全てがなかったことのように、元通りだった。紅姫はただ呆然と座り込み、土を握り締めていた。
立ち上がろうとして、耳の上に差してある枝に気付いた。幽かに匂っているのがいじましい。取ってしまおうかと考えて、紅姫はやめた。しおれるまでは、このままにしておこう。そして、この出で立ちでもう一度父に会いに行くのだ。
最後に、父を想う梅を届けてやらねばなるまい。
梅の木は既に散っている。僅かに散らばる白い花弁は名残だった。入れ替わるように咲き始める花々。風は強く温く湿っている。青臭い匂いと甘い匂い。春だった。そういえば、もう、春が来たのだ。
延喜三年二月二十五日。
父の亡くなった昼時のことだった。
【了】