飛び梅の追憶
女の手が豪奢な袖から伸びて、木肌をなぞる。折れそうな指先の白さに瞳を細めながら、白太夫は初めて女の素肌を目にしたと気付いた。相変わらず風は絶えることなく緩慢に吹き続けているのに、揺れ動く髪の隙間からは女の顔の一かけらも見えないのである。この女はどうやら本当に梅の化けた姿らしいと、そのときやっと白太夫は思いついたのであった。
「あの人はもう、おもどりにならない。私はもう、あの人に会うこともできない」
呟くように続けた女の手の甲に筋が浮き、そのまま木肌に爪を立てた。しかし確かな貫禄を備えたその木は傷つくこともなく背筋を伸ばし、寒風に煽られるのみである。女の立ち姿は凛々しくもあり、哀しくもあった。最早嗚咽を漏らすことも涙をこぼすこともなく、女――梅は、ただ立っていた。
一つ、白太夫は悟ってしまった。
梅は、道真が去ったその日から、ずっとここで泣いていたのだ。
さめざめと泣いていた。
「これから、私は筑紫へ参ります」
言葉が思わず口を衝いて出た。乾いた喉からはしわがれた声しか出ず、一度咳払いをする。白太夫は長く髪の垂れる女の背に、さらに言い募る。
「あの人の下に仕えるため、私はこれから発ちます。ですから、」
そのために、白太夫は今日ここに訪れたのであった。夫人から書簡を受け取るために参る中途に、女の泣き声が現れたのだった。この屋敷の、何と道真の名残で溢れ返ってやまないことか。流されるときに多くを持っていくことが許されなかった彼の人は、ここに残されたものについて何を考えているだろうか。
「あなたを、木を全て持っていくわけにはいきませぬが、多少根分けしてお持ちすることはできます。さすれば、きっと、あなたの花も匂いも皆、道真公にお見せできましょう」
言って踏み出した瞬間、どうと風が流れ込んだ。その深さと香り深さと、そして温さに白太夫はとても驚く。これではまるで、春の風である。もうじき春が来てしまう。それは先ほどの梅の言葉だった。気付けば、梅の枝にまとわりつく蕾はどれも萌しているのだった。
春を醸す風は女の姿を揺るがせた。髪が巻き上がり、女はゆるりと振り返る。女の顔を隠すものがなくなり、花の化身の相応しい面立ちの女は真っ直ぐ白太夫を見つめた。
「本当なのですか」
梅を思わせる色を載せた唇が開く。
「本当に、……あの人のところへつれて行ってくださるのですか」
自分は道真のために筑紫まで下るのだ。道真が梅を愛でていたのは白太夫もよく知ることだった。女の瞳は強くありながら、必死に縋りつこうともしている。道真のためになるのならば、自分はどんなこともしてみせよう。老いた自分にできることは限られているが、行かねばならないのだ。
「ええ」
白太夫は強く、強く頷いた。
もう一度、色濃い風が通り抜けた。
***
「白太夫は心優しい老人だった。道中、土や根とはなれて弱る私をはげまし、いたわった」
根元に座り込みながら少年が目を眇めた。紅姫も立っているのが辛くなったので共に座り込む。尻を突いてから着物を汚してしまったことに気付いて、しかし紅姫は大してそれを気にすることもなかった。ここで暮らし始めてから着ているものは汚れても怒られないような代物ばかりだったからだ。
「そのお話はもう、何回もきいたよ」
「昔話をしたい気分なのだ。きいておくれよ」
少年が眇めた目を元に戻しつつ言う。少年は確かに弟にそっくりだが、紅姫の記憶の弟の仕草とは一つも重ならない。埋葬が済んで暫くしてから庭先に現れるようになった弟の影に気付いたのは、紅姫だけだった。その弟らしき影はしかし紅姫の知る名――隈麿という――を名乗らず、自身を梅と言ったのだ。
「私は都に残された私とはわかたれた、別のいきものといっても良い。こどものようなといっても良い。だから、」
紅姫はその話の先を知っている。大人のようなことばかり言うけれど、紅姫は目の前の梅を名乗る弟が自分より幼いことをきちんと知っている。少年は、これ以外の記憶を持っていないのだ。
「お父様との思い出がないのでしょう。それももう何回もきいた」
だから話さなくて良いと言いたかったのだが、少年は深々と頷いて言う。
「そうだ。私は私がどのように道真様を好きであったか、しらないのだ。たしかに道真様をこのましく思うが、どうして好きなのかを私はしらない」
濃い気配を孕んだ春風が二人の間を通り過ぎる。より一層きつくなる香りを紅姫はしみじみと不思議に思った。決して甘くなく、どこか美味しそうだとさえ思う。慎ましやかな花は、そうして虫も鳥も人も誘い込むのだ。
「私はもともと、紅い梅だった」
「しってるよ。だって、あなたはわたしのおうちにあった梅でしょう」
確かな記憶ではないけれど、紅姫は春が近付くと一足先に咲くその小さな紅い花を父がとても嬉しそうに眺めていたのを覚えている。少年は地面に散らばる散ってしまった白い花弁を指先でいじりながら続ける。
「その旅は、それでも私には辛いものだった。実を言うと、あまりに辛くて弱った私はねむってばかりいたから、よくおぼえていないのだ。白太夫は本当によくしてくれた。私を死なせることなく、道真様の元へとどけたのだから。けれど、そうして、次の年に咲いたのは、」
あの人の知る、紅い花ではなかった。
少年はいつもここで声を落ち込ませる。紅姫はその美しくも哀しい物語の顛末を全て知っているのだ。少年は紅姫の顔を見ればいつもこの話をする。裏を返せばこれ以外の話をできない。少年には、記憶らしい記憶が一つもないのだ。
「旅の疲れで、色がぬけおちてしまったのだろう。私はすっかりかわってしまった。これでは道真様はよろこばないだろうと、おそれた」
弟の短い指が、落ちた花弁を丁寧に引き伸ばして摩っている。
「けれど、道真様はよろこんだ。きみもしっているだろう。一年前の、まだ肌寒い春だ。まだ、一年しか経っていないのだな。あれから、もう一度花をつけることが楽しみでならなかった」
――丁度一年前の春、弟はまだ生きていた。彼がするりとその魂を口から逃がしてしまったのは、秋の半ばであった。まだ生々しい筈の記憶は、しかし随分と遠くなってしまったように思う。
布団に横たえられた弟は酷く小さくなってしまったようだった。病が続いていたのだ。ここへ渡るまでの道のりも危うかった。寝込んでばかりいたからそれはいつもの姿とも言えたが、それでも、青白い顔で粥を呑み込んでいた弟とは決定的に違うのだった。じっと動かず瞼を閉じた白い顔からはどうしても生きた気配がせず、紅姫は暫く吸い込まれるように凝視した。
弟の影が庭を過ぎったのは、翌日のことだった。
弟の影に話しかけられたのは、さらにその三日後のことだった。
弟の影を見ているのが紅姫だけであること、そしてそれが弟ではないことに気付いたのは、もう少し時間が経ってからであった。
「ねえ、梅の木や、」
少年の興味は専ら手元の花弁にあるらしいと判断した紅姫は、少年の指先から花弁を掠め取って問う。
「どうして、おまえは隈麿の姿をしているの」
少年は思った通りに奪われた花弁を視線で追い、その先に紅姫の瞳を見つけた。紅姫が花弁を握りこんでしまうと、少年は少し唇を尖らせて答える。
「丁度良かったのだ」
「何が、」