君が世界
5.私が人間だとあなたはため息なの
ランディシアとは国らしい。そして今はハミッツの右翼に当たる地帯にいるらしい。とサヤカは憶測した。イゼルが新しく行き先を提案したからだ。
「このまま北上すると街があるはずだ」
サヤカはうなずく。地図もないのによくわかるなと感心していると、まだ騎乗していないイゼルがまじまじとこちらを見ていた。
(なあに?)
首をかしげると、イゼルは難しい顔をしている。
「あまり大きな街ではないから、サヤには不快かもしれない」
きょとんとしてしまう。そういえばこちらの世界では、人間はまだイゼルしか見たことがない。姿形はあちらの世界とそう変わりないから、見た目でのことではないだろう。
あ、とサヤカは思い出した。そういえば、はじめに見たときにイゼルはサヤカを攻撃しようとした。結果的に何もなかったのでまったく気にしていなかったが、そういう事態を気にしているのだろうか。
(私の姿って珍しいの? たしかに、あっちの世界でこんなの出たら珍獣だけど)
そんなものなのかもしれない。
イゼルを困らせるのは本意ではない。どうしたものか、と考えていてふと思った。
(そういえば、私って人間になれたりするのかな)
元が人間だったのだからできそうな気がしないでもない。とりあえずやってみるか、とばかりにサヤカは目を閉じた。
自分の元の姿を思い浮かべてみるが、正直あまり覚えていない。だが人間人間、と考えていると体の中でふっと何か道筋を示されるような感覚があり、それに向けて意識を絞っていくとぎゅっぎゅと自身が詰め込まれていく感じがした。
(う、わっ)
急に地面がなくなった。あわてたが、そう距離があったわけではなくすぐに足がついた。バランスがうまく取れずにたたらを踏む。目を開けるとだいぶ視点が低くなっていた。
体を動かしてみると不思議な感じがする。まず手があって、二足で立っているというだけでもなんだかおかしい。でも覚えのある動かし方だ。手を目の前に持ってきてみる。
(ちっさ!)
ぐーぱーと動かしてみてもちゃんと思い通りに動くので、自分の手だ。ずいぶん小さくてびっくりした。
(イゼルと同じくらい? 人間の平均ってこんなものかしら)
足も人間の足だし、顔やあちこち触ってみるがだいたい人間のものになっていると思う。髪はたてがみと同じ手触りで、背を覆うほど長い。色は毛並みと同じ鈍色をしている。これでいくと目は金斑の緑かもしれない。あちらの世界では両方黒だった気もするが、まあ色はどうでもいいだろう。
イゼルの方を見てみると、ものすごく目を丸くしていた。サヤカも驚いた。
(イゼルの方が大きい……)
サヤカより背が頭ひとつ半ほど大きい。鎧のせいもあるだろうが、体格もよい。あれほど小さいと思っていたイゼルより自分が小さいのは、なんというか屈辱的だった。
「……サヤ、か?」
(そうだよ)
うなずく。うなずいてから、ああ喋ればいいのか、と口を開いてみた。
「――」
(あれ?)
はくはくと口を動かすが、声が出ない。のどの辺りに触れてみると、声を出そうとしてものどが震えないのがわかった。
(うん? 声は出ないのかな)
そういえば獣のときにも声はでなかった気もする。出そうと思ったことがなかったので気づかなかっただけかもしれない。とりあえず現実に声が出ないのだし仕方ない。
すると肩に布をかけられて、サヤカは驚いた。イゼルを見ると、マントを貸してくれたようだ。なんで、と思ったがすぐわかった。よく見ずとも全裸だ。
全裸だと気づいても特に恥ずかしいとも思わなかった辺り、獣の感覚が身についてしまっているらしい。すーすーして心許ないのが気になっただけだ。
「……」
なぜかイゼルはサヤカから目をそらしている。心なしか顔が赤い。
(また熱でも出た?)
つい習慣で鼻面をイゼルの額に当てようとしたのだが、背が足りなかったので背伸びをした。それでも足りずに、くっついたのは額ではなく口と口だった。あ、と思ったときにはイゼルがサヤカの肩をつかんで引き離した後だった。
目に見えて動揺しているが、サヤカにはなぜかわからなかった。
それから、手を使えばいいんだと思い出して、イゼルの額と自分の額に手を当てる。
(熱はない)
イゼルが驚いたような目のままじっと見ているので、なんだろうと首をかしげる。ふいっと横を向いて目をそらされた。それから肩をつかんだ手を離す。
「……なんでもない」
(え? なに?)
なんでもないならいいけど、とサヤカはうなずいた。
たぶん街はまだ先なのだろう。気が先走って人間になってみてしまったが、今必要なのは人間じゃなくて獣の足だ。サヤカは目を閉じると、獣の姿に戻るように念じた。
人間になるよりも速やかに、体が大きくふくらんで元の形へ隅々まで広がっていくような感覚がした。目を開けると、手足は蹄の四肢になっており、毛並みも元に戻っている。
(よし。乗って、イゼル!)
ついと鼻面でいつも通りに額をこづくと、イゼルは長く息を吐きながらサヤカの首にぼすっと頭を埋めた。何かもごもごと言っているようだが、聞き取れない。
(どうしたの?)
つんつんとつつくと、首を横に振った。
「……なんでもない」
いつも通りにひらりとサヤカへ騎乗したが、なんだかため息をついていた。
日暮れ前には、街が見えた。
サヤカはイゼルを乗せて駆けることにも慣れてきたし、イゼルもサヤカに乗ることに慣れてきたようで、一番最初の日よりもずいぶん速く駆けることができるようになっていた。イゼルはよく褒めてくれた。
サヤカから降りると、イゼルは困ったような顔でマントを外した。それを見て、どうやらこれから人間になればいいらしいと気づいた。
目を閉じて念じると、一度目より素早く道筋をつかむことができた。地面がなくなる感覚もわかっていたので、バランスを崩すことなく着地できた。すぐにふわりとマントを掛けられる。
イゼルは鞄を探り――鞄の中で眠っていたサリューがきぃきぃ喚いて跳んできた――、着替えを貸してくれた。着替えを出し終わるとサリューはまた鞄の中に潜っていった。
服の作りは特に問題ない。イゼルがうまく動けないときには、猿がむしるように脱がせていくのを見守っていたので着方もわかる。
ありがたく借りて実際着てみると、頭ひとつ半分の背の差はやはり大きい。どうやってもずり落ちるズボンはあきらめた。もともとイゼルが着てもチュニックのようになる長い上着はサヤカが着ると膝下まで届き、ベルトを貸してもらったらちょうどワンピースのような形になった。襟元が大きく開くが、仕方ないだろう。
(これでいい?)
着替え終わり、イゼルの前で両手を広げて見せる。イゼルは顔をしかめて、着替えのために一度落としていたマントを再びサヤカに着せかけた。飾りのような紐をきっちりと結び、ぎゅっと襟元をしめられる。
苦しいのでゆるめようとしたが、止められた。
「……靴はさすがにないな」
イゼルは困っているようだったが、サヤカは別に靴などなくてもかまわなかった。何歩か歩いてみたが、裸足で歩いているという感覚はあまりない。自分で足の裏を見てみたが泥はつくが傷がつく様子もなかった。