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君が世界

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6.名前はあげられないの




 街は門と塀に守られていた。門番がいて、人の出入りを管理しているらしい。
(意外と近代的)
 などと感心しているうちに、イゼルは門番と少し会話をして通る手続きを終えてしまった。
「なるべく早く街を出られた方がいい」
 つぶやくように門番が言う。イゼルの問う視線に、門番は苦笑を返した。
「ここはランディシア領ですからね」
 サヤカにはわからなかったが、イゼルにはそれで通じたらしい。
 門をくぐると、煉瓦造りの街並みが広がっていた。高くても三階建てくらいで平屋も珍しくないようだ。道は石畳だったが、すべての道が整えられているわけでもない。
 村、というには大きいが、都会ではなく田舎の方なのだろう。なんとなくそう思う。
 サヤカがきょろきょろとあれこれ観察していても、イゼルが手を引いてくれるので迷うことはなかった。
 そもそも何処へ行こうとしているのかすらわかっていなかったが、どうやら買う物があったらしい。にぎやかな通りへさしかかると、あちらこちらに市がたっているようだった。
 そう人通りの激しいわけではなかったが、イゼル以外の人間たちは初めてだ。姿形はそう変わったところはない。ほとんどが茶系の目と髪で、肌の色は白っぽい。イゼルのような褐色の肌は見かけなかった。
(人種の違い?)
 目立つといったのはそのせいだろうか。この辺りはイゼルの故郷から離れているのかもしれない。
(……広い、なあ)
 森を出る前は何も考えていなかったが、当たり前のように森の外に道があり、人がいて、世界が広がっている。ふいにそのことを意識して、急に心細くなった。
(そういえば、ここって何処なんだろう)
 今更といえばあまりに今更な疑問が浮かぶ。獣の姿でいると、思考も獣っぽくなるのかもしれない。人間の姿になってみれば、今まで疑問に思わなかったのが不思議だった。
 ここ、とただ言うには、あまりにも大きな枠組み、あの深い森から果てしなく続く“ここ”、強いて言えば世界。
 考えてみれば魔力を放ったり纏ったり、というのはどう考えても魔法という奴だろう。そうなると元の世界ではあり得ない。ここは地球じゃない。
(そもそも私、人間じゃなくなってたし)
 うっかり色々なことが起こりすぎて、ひとつひとつの重要性が低くなっていた。獣になっていたこともそう。それに何よりも。
(私、どうやってここへ来たんだろ?)
 名前は覚えているし、元の世界のことも覚えている。でも自分自身の記憶がどうにも曖昧だ。覚えているのはこの世界へやってきたとき、すでに自分が獣の姿で、ひどく喉が渇いていたこと、そしてそのままあの森で暮らしたこと。
 森に来てからのことははっきり覚えているのに、それ以上前のことはおぼろげだ。思い出そうにも、何から思い出せばいいのかもわからない。
(私って――なんなの?)
「サヤカ?」
 名前を呼ばれて、びくっと全身が跳ねた。あまりの驚きように、呼んだイゼルも目を丸くしている。サヤカが驚いた心臓を隠すように首をかしげると、イゼルはほっと安堵するように微笑んだ。
「すまない、声をかけても返事がなかったから」
(ううん、こっちこそごめんね)
 呼ばれていたことにまったく気づいていなかった。イゼルはサヤカの頬にそっと手を当てた。
「人が多いから疲れたか?」
(大丈夫)
 首を横に振ると、頬から首へ、髪へとイゼルの手が伝った。それはいつも首筋をなでるのと同じ仕草だった。普段よりずっと大きな手のひらがなんだか不思議だ。サヤカはうっとりと目を細めて、いつもするようにその手のひらに頬をすり寄せようとしたが、イゼルはすぐに手を引いてしまった。思わず手のひらを追いかけるように見上げると、ばつの悪そうなイゼルの顔があった。なんだろう。
「……買い物は済んだから休むところを捜そう」
 反対する理由はないので、サヤカはうなずいておいた。
 道や街のことはサヤカにはさっぱりわからなかったが、捜すといったわりにイゼルの足取りに迷いはない。すぐに一軒の店に辿り着いた。
 扉を開けると中のざわめきがわっと押し寄せる。外がそれほど活気にあふれてはいなかったので、サヤカは驚いた。机がいくつもあり、人間たちがたくさんいた。どうやら飲食店のようだ。
 きょろきょろと落ち着きなくあたりを見回したせいか、イゼルがサヤカの手を引いた。カウンターへ行くと、中から人間が寄ってくる。宿の主人だろうか。イゼルが宿と食事をと頼むと、値踏みするようにこちらを眺めたが、コインのようなものがカウンターへ置かれるとにこやかになった。
(あれがお金かぁ)
 ふうんと思いながら眺めていると、また手を引かれて空いている席に座らされる。席についても手をずっと繋いだままなので、なんとなくその手を持ち上げてみると、ぱっと音がしそうなほど勢いよく手が離れた。
(んん?)
 イゼルを見つめるが、彼は目をそらしている。じっと見つめていると、ぼそりと言った。
「……はぐれると困るから」
 なんだそういうことか、とサヤカはうなずく。
(私がイゼルを見失うわけないのに! でも心配なら繋いでおこう)
 しかしまた繋ごうとすると手が逃げた。ちらと見上げるがイゼルは目をそらしたままだ。
 きぃ、とイゼルの鞄からサリューが顔を出し、机の上によじよじとよじ登った。そしてイゼルと繋ぎ損ねたサヤカの手指をぎゅっとつかんで振る。何でも真似するところが可愛い。前にイゼルにしようとして失敗したことを思い出して、鼻ではなく唇で額に触れた。魔力を分け与えてやったわけではなかったが、サリューは嬉しそうにサヤカの手に頬ずりした。
 なぜか周囲がざわめいた。
「シーオウを従えている……」
「よほどの術者だろう」
「導師か」
 なんだろう、と思ったところで食事が運ばれてくる。期待したわけではなかったが、やはり魔力のかけらもない食事だった。イゼルの食べているものを見て憶測していた通り、あちらの世界では見ないものもある。しかしそれほど奇想天外な見た目ではない。食べたことがないので味のことはわからないが。
 食事を運んできたのは先ほどの宿の主人ではなく、女性だった。
(小さぁい!)
 いまいち獣の感覚が抜けきらないが、イゼルより頭ひとつ以上小さい。女性をまじまじと見つめながら感心していると、同じようにこちらを見返して、何か意を決したように女性は口を開いた。
「名を教えていただけませんか?」
 突然のことに、サヤカはただ目を瞬いて女性を見つめた。
(な? 名前のこと?)
 戸惑っていると、イゼルが代わりに答えた。
「気軽に問うものではない。命に関わるぞ」
「気軽ではございません」
 女性の声は震えている。ぎゅっとエプロンの裾を絞るようにつかむ手も、震えていた。
「受名の導師様とお見受けしたから、尋ねたのです」
(ジュメイのドウシさま?)
 サヤカはきょとんとしてイゼルと女性の双方をうかがった。
作品名:君が世界 作家名:なこ