拝み屋 葵 【肆】 ― 師道隘路 ―
魂の“揺らぎ”を感じる鎮魂の儀を行うためには、人払いを行う必要がある。一族の巫女が儀式を行う場合は、一族の者が四方八方に立ち、人的に入り込めないようにしていた。
その秘匿性が御業の伝承を妨げ、御業そのものを喪失することとなった。
「ウチやったら構いまへん。けど、一族に伝わる鎮魂の舞っちゅうのんがでけへんと、代役は務まらへんのと違いますか?」
「それについては心配無用だ。私が伝授しよう」
「せやから、代々伝わる鎮魂やないとアカンのでは?」
簾の奥から、ふむ、と唸る声が響く。
それは、何かを思案している、というよりは、何かを決心した、その振りをしている仕草であった。そして、それが行われた直後に聞かされる話は、およそ常識の範疇では理解できない内容であることを、葵は知っている。
「私が一族の祖先に伝えたものなのだ」
「さらっととんでもないこと言わはりましたな」
「事実なのだから仕方なかろう」
簾に見える影は、右肩に左手を置いて、首の後ろのリンパを前面へと押し流していた。もしこの影絵に台詞を付けろと言われたら、百人のうち九十九人が、やれやれ、と付けるだろう。
管理者の一族とは、霊木を神木として護る義務を負った者たちだ。責任には見返りがあり、おいしい汁がある。実際に管理者の一族は土地の名士でもある。ところが、霊木を護るために必要不可欠である鎮魂の御業を、不慮の事故であったとはいえ、逸してしまった。一族はその責を受けねばならない。
新たに伝授すれば良いではないか、と思うかもしれないが、それが許されるのならば、始めから責任の見返りなど存在していない。
これは執行猶予なのだ。
新たな鎮魂の御業を編み出すか、義務を放棄してこの地を去るか。欲望に当てられた霊木が妖木と化す前に、一族はこれらのどちらかを選択し実行しなければならない。どちらも選択しなかった場合、管理者の一族を待っているのは社会的抹殺だ。それも完全な。
「えげつないわぁ」
葵は苦笑する。
管理者の一族とて、自分たちを待っている未来がどのようなものなのか大方の予想はついているだろう。そこに執行猶予の開始を意味する葵の来訪があれば、気が気ではなくなる。
追い詰められた人間はどんなことでもする。様々な手段を講じて鎮魂の御業を探ろうとするのは容易に想像できる。極端な話、葵を監禁することも考えられる。しかし、人払いを必要とする儀式の性格上、密かに実行することは不可能なため、葵はどうしても管理者一族と顔を会わせなければならない。
「そう言うてくれるな」
簾の奥の声は、珍しく悲壮な響きを持っていた。
権利や義務や責任といった物事には何よりも厳しかったはずが、なぜ今回に限って物悲しさを漂わせているのか。
葵は師匠に訊ねたい衝動に駆られた。
今回の件に関係していることであれば、葵には知る権利がある。むしろ知っておかねばならない。
大義名分はある。だが、それは葵に微塵の勇気も与えることはなく、何の後押しにもなりはしなかった。
場を包む静寂は、踏み出すのを待っているのか、それともそれを拒否しているものなのか、そのどちらにもなり切れぬまま数瞬の時を経た。
「すまんな、気を使わせたか」
しゃ、という歯切れの良い音と共に簾が上がる。
「いえ」
不意に哀愁を纏った師の微笑みを見せられてしまった葵は、どう反応してよいのか分からず、ただ無感情に否定する。
「かつて全国行脚をしたことがあってね」
「修行どすか」
「なぁに、ほんの気まぐれだ。見てご覧よ、ここの景色は綺麗だろう?」
縁側から降りることができる庭では、所狭しと茂る草花がこぞって秋を主張している。さらにその向こう、屋敷を囲う塀の向こうに見える尾根では、紅や黄に染まった樹木が無二の情景を描き出していた。
よくよく見れば、虫食いの葉や病気の茎が目に付く。決して細部に至るまで管理され整えられたものではない。自然の美であり、自然な美であった。
「だがこれは、世の随一ではないし、世のすべてでもない」
「ほんまどすな」
師の背中を追って縁側へと出た葵は、遠く山の端に視線を飛ばした。
「話が逸れた。とにかく、その物見遊山の折に件の霊木の噂を耳にしたんだ。当時は妖の木と呼ばれていて、生贄を捧げる風習があった。俺が足を運んだとき、その生贄を運ぶ真っ最中でな。成り行きで手を差し伸べてしまったのだ」
「そないに美人はんやったんどすか?」
「うむ。……あ」
「……」
葵は大袈裟に呆れてみせる。
「腕を上げたな」
「もうよろしおす。そのときに助けはったお人が、管理者の一族になりなはったんどすな」
「そういうことだ」
言葉から滲み出るのは、見届ける、という意思。
それは責務などではなく、本人の固い意志、強い希望、果ては我侭によって彩られた、揺るぎのないものだ。
葵はそのことを察し、そして理解するにまで及んだ。
見返りとして土地の名士となった一族には、土地を離れることができないという制約が課せられている。制約自体には何の強制力もありはしない。だからといって、鎮魂の儀を放棄して土地を離れれば、忌まわしき生贄の習慣が再開されることになり、それによって周囲から情け容赦の無い責め苦を受けるあろうことは想像に易い。
一族の者たちは、自らの繁栄と栄達はご神木あってこそのものであると教えられ、そう信じて生きていた。そのため、切り倒したりお祓いをしたりといった行為は、一族にとって禁忌であった。“金のなる木”を進んで切り倒す者はいなかった、ということだ。
「後悔……してはります?」
葵は、自分がどんな顔で師に問いかけているのか分からなかった。
目の前の男は、知り得る限りで最も後悔という言葉が似合わない。美人だから助けた、そんな理由が嘘八百であることは、他の誰よりも知っている。
「後悔とは、違う」
そうはっきりと断言した師の背中に、葵は安堵を得た。
「永い時の中にあれば木が枯れるかもしれん、と考えたのだ。結果、あの木は想像よりも遥かに長い歳月を重ねた。今となっては、数少ない俺の友だ」
葵の胸中に、誤魔化しようのない確信を伴った一つの答えが宿る。
いずれ訪れる別離の瞬間は、葵の考えているものとは正反対の型を成す。それは、余人に量り知ることは叶わぬものだ。
得られぬものだからこそ、求め、迷い、そしてより深く胸を痛める。
師は言った。それが生きるということだ、と。
葵はいつか師に問うだろう。貴方の“得られぬもの”は何ですか、と。そのとき、師は正直に答えるだろう。葵の思う通りの、矛盾した答えを。
そして、こう続けるのだ。それが生きるということだ、と。
その秘匿性が御業の伝承を妨げ、御業そのものを喪失することとなった。
「ウチやったら構いまへん。けど、一族に伝わる鎮魂の舞っちゅうのんがでけへんと、代役は務まらへんのと違いますか?」
「それについては心配無用だ。私が伝授しよう」
「せやから、代々伝わる鎮魂やないとアカンのでは?」
簾の奥から、ふむ、と唸る声が響く。
それは、何かを思案している、というよりは、何かを決心した、その振りをしている仕草であった。そして、それが行われた直後に聞かされる話は、およそ常識の範疇では理解できない内容であることを、葵は知っている。
「私が一族の祖先に伝えたものなのだ」
「さらっととんでもないこと言わはりましたな」
「事実なのだから仕方なかろう」
簾に見える影は、右肩に左手を置いて、首の後ろのリンパを前面へと押し流していた。もしこの影絵に台詞を付けろと言われたら、百人のうち九十九人が、やれやれ、と付けるだろう。
管理者の一族とは、霊木を神木として護る義務を負った者たちだ。責任には見返りがあり、おいしい汁がある。実際に管理者の一族は土地の名士でもある。ところが、霊木を護るために必要不可欠である鎮魂の御業を、不慮の事故であったとはいえ、逸してしまった。一族はその責を受けねばならない。
新たに伝授すれば良いではないか、と思うかもしれないが、それが許されるのならば、始めから責任の見返りなど存在していない。
これは執行猶予なのだ。
新たな鎮魂の御業を編み出すか、義務を放棄してこの地を去るか。欲望に当てられた霊木が妖木と化す前に、一族はこれらのどちらかを選択し実行しなければならない。どちらも選択しなかった場合、管理者の一族を待っているのは社会的抹殺だ。それも完全な。
「えげつないわぁ」
葵は苦笑する。
管理者の一族とて、自分たちを待っている未来がどのようなものなのか大方の予想はついているだろう。そこに執行猶予の開始を意味する葵の来訪があれば、気が気ではなくなる。
追い詰められた人間はどんなことでもする。様々な手段を講じて鎮魂の御業を探ろうとするのは容易に想像できる。極端な話、葵を監禁することも考えられる。しかし、人払いを必要とする儀式の性格上、密かに実行することは不可能なため、葵はどうしても管理者一族と顔を会わせなければならない。
「そう言うてくれるな」
簾の奥の声は、珍しく悲壮な響きを持っていた。
権利や義務や責任といった物事には何よりも厳しかったはずが、なぜ今回に限って物悲しさを漂わせているのか。
葵は師匠に訊ねたい衝動に駆られた。
今回の件に関係していることであれば、葵には知る権利がある。むしろ知っておかねばならない。
大義名分はある。だが、それは葵に微塵の勇気も与えることはなく、何の後押しにもなりはしなかった。
場を包む静寂は、踏み出すのを待っているのか、それともそれを拒否しているものなのか、そのどちらにもなり切れぬまま数瞬の時を経た。
「すまんな、気を使わせたか」
しゃ、という歯切れの良い音と共に簾が上がる。
「いえ」
不意に哀愁を纏った師の微笑みを見せられてしまった葵は、どう反応してよいのか分からず、ただ無感情に否定する。
「かつて全国行脚をしたことがあってね」
「修行どすか」
「なぁに、ほんの気まぐれだ。見てご覧よ、ここの景色は綺麗だろう?」
縁側から降りることができる庭では、所狭しと茂る草花がこぞって秋を主張している。さらにその向こう、屋敷を囲う塀の向こうに見える尾根では、紅や黄に染まった樹木が無二の情景を描き出していた。
よくよく見れば、虫食いの葉や病気の茎が目に付く。決して細部に至るまで管理され整えられたものではない。自然の美であり、自然な美であった。
「だがこれは、世の随一ではないし、世のすべてでもない」
「ほんまどすな」
師の背中を追って縁側へと出た葵は、遠く山の端に視線を飛ばした。
「話が逸れた。とにかく、その物見遊山の折に件の霊木の噂を耳にしたんだ。当時は妖の木と呼ばれていて、生贄を捧げる風習があった。俺が足を運んだとき、その生贄を運ぶ真っ最中でな。成り行きで手を差し伸べてしまったのだ」
「そないに美人はんやったんどすか?」
「うむ。……あ」
「……」
葵は大袈裟に呆れてみせる。
「腕を上げたな」
「もうよろしおす。そのときに助けはったお人が、管理者の一族になりなはったんどすな」
「そういうことだ」
言葉から滲み出るのは、見届ける、という意思。
それは責務などではなく、本人の固い意志、強い希望、果ては我侭によって彩られた、揺るぎのないものだ。
葵はそのことを察し、そして理解するにまで及んだ。
見返りとして土地の名士となった一族には、土地を離れることができないという制約が課せられている。制約自体には何の強制力もありはしない。だからといって、鎮魂の儀を放棄して土地を離れれば、忌まわしき生贄の習慣が再開されることになり、それによって周囲から情け容赦の無い責め苦を受けるあろうことは想像に易い。
一族の者たちは、自らの繁栄と栄達はご神木あってこそのものであると教えられ、そう信じて生きていた。そのため、切り倒したりお祓いをしたりといった行為は、一族にとって禁忌であった。“金のなる木”を進んで切り倒す者はいなかった、ということだ。
「後悔……してはります?」
葵は、自分がどんな顔で師に問いかけているのか分からなかった。
目の前の男は、知り得る限りで最も後悔という言葉が似合わない。美人だから助けた、そんな理由が嘘八百であることは、他の誰よりも知っている。
「後悔とは、違う」
そうはっきりと断言した師の背中に、葵は安堵を得た。
「永い時の中にあれば木が枯れるかもしれん、と考えたのだ。結果、あの木は想像よりも遥かに長い歳月を重ねた。今となっては、数少ない俺の友だ」
葵の胸中に、誤魔化しようのない確信を伴った一つの答えが宿る。
いずれ訪れる別離の瞬間は、葵の考えているものとは正反対の型を成す。それは、余人に量り知ることは叶わぬものだ。
得られぬものだからこそ、求め、迷い、そしてより深く胸を痛める。
師は言った。それが生きるということだ、と。
葵はいつか師に問うだろう。貴方の“得られぬもの”は何ですか、と。そのとき、師は正直に答えるだろう。葵の思う通りの、矛盾した答えを。
そして、こう続けるのだ。それが生きるということだ、と。
作品名:拝み屋 葵 【肆】 ― 師道隘路 ― 作家名:村崎右近