アヴァロンは未だ遠く
明るく笑った洸に、僅かに郁人が破顔した。本の装丁を撫でる。『カイン冒険譚』と銘打たれたそれは、もう5、6年も連載を続けている大人気の冒険活劇である。カインという探偵がまさしく快刀乱麻に事件を解決していくさまは世界中の子供たちを魅了した。もとは森の国で書かれているので、あちらで発売されるのと海の国に入ってくるまではすこし間が空く。入手したその日に読んでしまう郁人にとって、1日でも早く本を手に入れられることは相当な大問題であった。
「…な、郁人はさ、もし、家督を継げって言われたら、どうすんの?」
「絶対いやだ。めんどくさいし、おれは、探偵になりたいんだって」
父親が聞いたら卒倒してしまいそうなことを、郁人は平然と口にする。洸はそれを、かれらしいなあと思う。この本を読み始めてからというもの、平素から郁人はそういっていた。無論洸の前だけだけれど、それは楽しそうにその夢を語る。
「そしたら、俺は助手だな」
これもまた、昔から洸が言い続けてきたことである。こんなふうだからいつも父親に「おまえは郁人さまの騎士には不釣り合いだ!」なんて言われるのだけれど、気にしたこともなかった。
「そうだな、まずは豊胸から」
「なんでおまえはそう、形から入りたがるんだよ」
カイン冒険譚でカインの助手を務めるのは、うつくしいブロンドの長髪を持つ絶世の美女という設定である。残念ながら洸はれっきとした男なので、彼女にはなれない。ともかく郁人に冗談をいう余裕があるのを知って少し洸は安心をした。
かれにとって兄と争うことは、身を切られるようにつらいに違いない。かれはなかなかに良い性格をしているしけっこう喧嘩早いところはあるが、周囲のひとには酷くやさしいのだ。ただしその枠に自分は入っていないように、昔から洸は思っている。だってけっこう、こいつはひどい。
「皇子とおれは同じ年だからな。きっと父上もそれを狙っているんだ」
「…ふうん」
他の大公の子息は、もっと年嵩か、それともまだ生まれていないかの二択であった。年若い大公も居れば、孫がいるような大公もいる。それでもバランスを保っているのだから、大公家と皇帝一族の繋がりがいかに深いかが分かる。無論その世継ぎともならば重圧はさもありなんというやつだった。
「…けど、いつか」
かれらしくもなく弱気な声で、ふいに郁人が呟いた。洸は顔を上げ、郁人のほうをみる。かれはぼんやりと聳え立つ帝都の城のほうを見ていた。もの思いに耽っているのか、それともこれから待つかれの運命を予測でもしているものか、洸にはわかりかねる。
「いつか、ほんとうに家督争いになってしまったとしたら…」
ただ、かれのその年相応とは思えない憂いを帯びた表情を見ていると、洸はもっと強くならなくては、と思うのが常だった。どんなことがあっても、かれの騎士であれるように。
「そのときおれは、この国を出る」
かれがこうまではっきりとおのれの未来を決めたのは、このときがはじめてだったように、洸は思う。それはかれがついに兄と同じラインに立たされてしまったせいか、それともただ、昔から思ってきたことをふと口にしただけなのかは、洸にはわからない。わからないが最初から、答えは決まっていた。
「…ついて来て、くれるか?」
そして郁人は、かれらしくもなく小さな声でそういうと、城から視線をかれの生まれ育った東の大公邸へと引きもどした。かれを縛る、かれの愛する町である。
「そんなの、決まってるだろ!」
そういって洸は笑顔になった。一呼吸置いて、郁人が仰のいて笑う。まったく、お前ってやつは。お互いに何度となく言ったフレーズは、いつになく震えていたのを洸はよく覚えている。
思えばあれから十年も経つのだと、そよぐ風に半端に伸びた黒髪を遊ばれながら洸はそんなことを思った。
作品名:アヴァロンは未だ遠く 作家名:シキ