アヴァロンは未だ遠く
天気のいい日の午後三時には、決まって庭のテラスでメイドの淹れた紅茶を飲みながら、かれが本を読んでいることを洸はよく知っている。だからこの日は少し早めに鍛練を引き上げて、木刀をそこらへんに投げ捨てて庭へ出るのが常だった。
「帰ってたのか。おかえり」
膝の上に乗せた本の頁をめくりながら、蜂蜜いろをもっと薄くしたような、洸が好きなカフェラテにチョコレートを落としたような色の髪をした少年が、そう言って洸に視線を寄越す。手入れのされた薔薇園の真ん中に、まるで妖精がお茶会でもするみたいにおかれた白い円卓と椅子はいかにも此処が豪邸であると窺わせるようだ。
「ただいま!」
仔犬が飼い主にじゃれつくみたいにして元気よくそういって、洸は勢いよく隣の椅子に腰かけた。かれの手元を覗きこみ、相も変わらず分厚いその本の頁数を一瞥する。270ページ。ここ5年ほどの体験談でいうと、読み終わるまであと1時間といったところだろう。
海の帝国、山の王国、森の共和国。この大陸を三分するそれらの国ぐにの中でも、機械や魔導で栄えるこの海の帝国はむかしから、皇帝とそれを支える四大公で成り立ってきた。かれら五つの家だけが持つことを許された騎士団がそれぞれ中央、東西南北に分かれてこの国を守っているのだ。
そしてこの邸は、帝都より東の街に置かれた東の大公、須王院家のものであった。ほど近くに森の共和国があるこの街では騎士たちも小競り合いに参加することが多く、住民、とりわけ年若い子供たちにとって騎士は憧れの的なのである。
「今日も、いつもの話?」
そしてまだ年若い洸もまた、その騎士団に入る若者を養成する学校へと通っていた。しかしかれの通う教室は平民たちが入るそれとは少し異なる。生まれたときから騎士になることを定められた、いうなればエリート養成コースを受けているのだ。というのも。
「そう。今日のは、大富豪の後家が殺される話」
「…ゴケ?」
「二番目の奥さんのこと」
かれの隣で先ほどから、帝都でも人気の探偵小説を読みふけっている少年がこの須王院家の次男坊であり、洸が将来かれを守る騎士となることを生まれたときから決められているからである。洸の父親は歴代、東の大公を守護してきた騎士の家の当主である。騎士団長も務めるかれは、この亜麻色の髪をした少年の父、つまり現須王院家の当主の騎士でもあるのだ。
「で、今日はどうだったんだ?」
「聞いてくれよ郁人!きょう、はじめて3年生をやっつけたんだぜ!」
まってました、といわんばかりに、洸は笑顔を見せた。それを横目で見て、郁人は整った顔に微笑みを乗せる。見る者を沈黙させてしまうような、息を呑むような美しさのある微笑みである。それはかれの母である、大公夫人譲りのものであった。
郁人は次男坊である。長男である兄は父に似、郁人は母に似た。兄も数えの年で15才、郁人も13才と、そろそろ家督をどちらに譲るかそんな話が出始めるころであった。
「すごいな。教官は何て言ってた?」
「『おまえは筋がいい』って言われた!」
幼馴染の満面の笑みを、微笑ましく郁人は思う。探偵が謎解きをするその次の頁をめくりながら、伏せられていたカップを取って洸にも紅茶を注いでやった。
「だけど…」
「『まったく、勉強さえ出来たらなあ』」
「…な、何で言う前にわかるんだよ」
「なんとなく」
香りのよい紅茶をまるで水みたいにしてごくごくと飲み下し、洸は半眼で友の横顔を見る。とうの本人は涼しい顔をして、再び読書に没頭をしていた。
かれが指摘したとおり、洸は驚くほど勉強が出来ない。やる気がない、ともいう。ダンスの仕方、百にも及ぶテーブルマナーなど騎士には必須とされるそれらを、周囲もため息するほど出来なかった。ただしかれはその分、それを補って有り余るほどに剣術の才に恵まれていた。騎士学校にも殆ど剣の修行をしに行っているようなものである。
「そ、それより、おまえ、学校に行くって、ほんと?」
半ば強引に話を逸らすようにして、洸は郁人に尋ねた。先ほど、帝都からの汽車に乗って帰ってくるさなかに街の住人が話しているのを聞いたのだ。それによると、東の大公の次男坊が帝都の学校に通うという。無論もともと郁人には家庭教師が何人もつけられている。勉強、マナー、ヴァイオリンにピアノ、そして剣術。どれも一流の講師だけあって、郁人は見た目に相反して剣術すら人並み以上にこなした。未だかつて本気で洸と試合をしたことはないが、百パーセント勝てるとは洸は思っていない。
そして空いた時間にはこうして本を読むようなこどもであったから(それは、殆どがこの探偵小説のシリーズであったけれど)洸には郁人が学校に行く理由がわからなかったのだ。
「ほんとうらしいな。父上がおまえの父さんと話してるのを聞いた」
それは、つまり。と、洸は黙り込む。洸は馬鹿だが頭は切れた。ほんとうに幼いころからかれの傍にいるだけあって、かれから沢山のことを聞いたからだ。つまりそれって、やっぱりさあ。いいかけて、止める。郁人が本に栞を挟んで、月に二回発売されるその探偵小説を机の上に置いた。
「皇族や他の大公に顔を売るためだろう。おれに家督を譲るか、兄上に家督を譲るか、父上は迷っているらしい。…面倒なことだ」
かれはしんそこそう思っているのか本当に疑わしく、かるいため息とともにそういって苦笑いをした。なんとなく洸も、つられて笑う。かれが常々家督などいらないと言っていることを洸はよく知っていた。だがかれの父は、要る要らないではなく最も優れたものが家督を継ぐのが使命なのだとかれの言論を封じ込めてしまう。それで苦い顔をするのは、郁人だけではなかった。
郁人の兄は、或人という。郁人より二つ年嵩で、郁人より濃い髪の色をし、父譲りの青い瞳を持つ青年だ。かれはちょうど今の郁人の年に帝都の学校へと通い始めていた。騎士学校の傍にある、皇子や大公の息子、その他貴族たちの子息が通う言わば名門学校である。そこでかれは、ここ東町まで噂が届いてくるほどに熱心な生徒であった。どれも人並み以上にこなし、剣術では特別目を掛けられていると聞く。家に戻ってもなお家庭教師を付けているのだからそれもあろう。だけれど洸は、どうしてかれがそんなに努力をしているか知っていた。
幼いころから、郁人は何でも出来た。いつものように涼しい顔で難しい問題を解き、剣の腕を光らせていた。まさしく天才型の人間である。おそらく或人はそんな弟がコンプレックスなのだ。だから努力をした。かれと同等、それ以上の才能を手に入れようとした。
そして郁人もまた、それをしっている。だからかれは兄の立場を脅かすようなことを、極力避けているのだ。本ばかり読んでいるのもきっとその反動だろう。暇さえあれば年の離れた妹と遊んでいるのも、きっとそうだ。
或人もそれに気付いている。弟が自分を憐れんでいるのではなく、兄である自分を追い詰める自分に嫌気が差していることすら。これはかれに仕えている(洸と違いとても優秀な)兄に聞いたのだから確かだろう。
「…そっか。じゃあさ、今度いっしょに帝都に行こう。ずっと行ってなかっただろ」
「そうだな。…あっちだと、この町より早く本が出るかな」
「帰ってたのか。おかえり」
膝の上に乗せた本の頁をめくりながら、蜂蜜いろをもっと薄くしたような、洸が好きなカフェラテにチョコレートを落としたような色の髪をした少年が、そう言って洸に視線を寄越す。手入れのされた薔薇園の真ん中に、まるで妖精がお茶会でもするみたいにおかれた白い円卓と椅子はいかにも此処が豪邸であると窺わせるようだ。
「ただいま!」
仔犬が飼い主にじゃれつくみたいにして元気よくそういって、洸は勢いよく隣の椅子に腰かけた。かれの手元を覗きこみ、相も変わらず分厚いその本の頁数を一瞥する。270ページ。ここ5年ほどの体験談でいうと、読み終わるまであと1時間といったところだろう。
海の帝国、山の王国、森の共和国。この大陸を三分するそれらの国ぐにの中でも、機械や魔導で栄えるこの海の帝国はむかしから、皇帝とそれを支える四大公で成り立ってきた。かれら五つの家だけが持つことを許された騎士団がそれぞれ中央、東西南北に分かれてこの国を守っているのだ。
そしてこの邸は、帝都より東の街に置かれた東の大公、須王院家のものであった。ほど近くに森の共和国があるこの街では騎士たちも小競り合いに参加することが多く、住民、とりわけ年若い子供たちにとって騎士は憧れの的なのである。
「今日も、いつもの話?」
そしてまだ年若い洸もまた、その騎士団に入る若者を養成する学校へと通っていた。しかしかれの通う教室は平民たちが入るそれとは少し異なる。生まれたときから騎士になることを定められた、いうなればエリート養成コースを受けているのだ。というのも。
「そう。今日のは、大富豪の後家が殺される話」
「…ゴケ?」
「二番目の奥さんのこと」
かれの隣で先ほどから、帝都でも人気の探偵小説を読みふけっている少年がこの須王院家の次男坊であり、洸が将来かれを守る騎士となることを生まれたときから決められているからである。洸の父親は歴代、東の大公を守護してきた騎士の家の当主である。騎士団長も務めるかれは、この亜麻色の髪をした少年の父、つまり現須王院家の当主の騎士でもあるのだ。
「で、今日はどうだったんだ?」
「聞いてくれよ郁人!きょう、はじめて3年生をやっつけたんだぜ!」
まってました、といわんばかりに、洸は笑顔を見せた。それを横目で見て、郁人は整った顔に微笑みを乗せる。見る者を沈黙させてしまうような、息を呑むような美しさのある微笑みである。それはかれの母である、大公夫人譲りのものであった。
郁人は次男坊である。長男である兄は父に似、郁人は母に似た。兄も数えの年で15才、郁人も13才と、そろそろ家督をどちらに譲るかそんな話が出始めるころであった。
「すごいな。教官は何て言ってた?」
「『おまえは筋がいい』って言われた!」
幼馴染の満面の笑みを、微笑ましく郁人は思う。探偵が謎解きをするその次の頁をめくりながら、伏せられていたカップを取って洸にも紅茶を注いでやった。
「だけど…」
「『まったく、勉強さえ出来たらなあ』」
「…な、何で言う前にわかるんだよ」
「なんとなく」
香りのよい紅茶をまるで水みたいにしてごくごくと飲み下し、洸は半眼で友の横顔を見る。とうの本人は涼しい顔をして、再び読書に没頭をしていた。
かれが指摘したとおり、洸は驚くほど勉強が出来ない。やる気がない、ともいう。ダンスの仕方、百にも及ぶテーブルマナーなど騎士には必須とされるそれらを、周囲もため息するほど出来なかった。ただしかれはその分、それを補って有り余るほどに剣術の才に恵まれていた。騎士学校にも殆ど剣の修行をしに行っているようなものである。
「そ、それより、おまえ、学校に行くって、ほんと?」
半ば強引に話を逸らすようにして、洸は郁人に尋ねた。先ほど、帝都からの汽車に乗って帰ってくるさなかに街の住人が話しているのを聞いたのだ。それによると、東の大公の次男坊が帝都の学校に通うという。無論もともと郁人には家庭教師が何人もつけられている。勉強、マナー、ヴァイオリンにピアノ、そして剣術。どれも一流の講師だけあって、郁人は見た目に相反して剣術すら人並み以上にこなした。未だかつて本気で洸と試合をしたことはないが、百パーセント勝てるとは洸は思っていない。
そして空いた時間にはこうして本を読むようなこどもであったから(それは、殆どがこの探偵小説のシリーズであったけれど)洸には郁人が学校に行く理由がわからなかったのだ。
「ほんとうらしいな。父上がおまえの父さんと話してるのを聞いた」
それは、つまり。と、洸は黙り込む。洸は馬鹿だが頭は切れた。ほんとうに幼いころからかれの傍にいるだけあって、かれから沢山のことを聞いたからだ。つまりそれって、やっぱりさあ。いいかけて、止める。郁人が本に栞を挟んで、月に二回発売されるその探偵小説を机の上に置いた。
「皇族や他の大公に顔を売るためだろう。おれに家督を譲るか、兄上に家督を譲るか、父上は迷っているらしい。…面倒なことだ」
かれはしんそこそう思っているのか本当に疑わしく、かるいため息とともにそういって苦笑いをした。なんとなく洸も、つられて笑う。かれが常々家督などいらないと言っていることを洸はよく知っていた。だがかれの父は、要る要らないではなく最も優れたものが家督を継ぐのが使命なのだとかれの言論を封じ込めてしまう。それで苦い顔をするのは、郁人だけではなかった。
郁人の兄は、或人という。郁人より二つ年嵩で、郁人より濃い髪の色をし、父譲りの青い瞳を持つ青年だ。かれはちょうど今の郁人の年に帝都の学校へと通い始めていた。騎士学校の傍にある、皇子や大公の息子、その他貴族たちの子息が通う言わば名門学校である。そこでかれは、ここ東町まで噂が届いてくるほどに熱心な生徒であった。どれも人並み以上にこなし、剣術では特別目を掛けられていると聞く。家に戻ってもなお家庭教師を付けているのだからそれもあろう。だけれど洸は、どうしてかれがそんなに努力をしているか知っていた。
幼いころから、郁人は何でも出来た。いつものように涼しい顔で難しい問題を解き、剣の腕を光らせていた。まさしく天才型の人間である。おそらく或人はそんな弟がコンプレックスなのだ。だから努力をした。かれと同等、それ以上の才能を手に入れようとした。
そして郁人もまた、それをしっている。だからかれは兄の立場を脅かすようなことを、極力避けているのだ。本ばかり読んでいるのもきっとその反動だろう。暇さえあれば年の離れた妹と遊んでいるのも、きっとそうだ。
或人もそれに気付いている。弟が自分を憐れんでいるのではなく、兄である自分を追い詰める自分に嫌気が差していることすら。これはかれに仕えている(洸と違いとても優秀な)兄に聞いたのだから確かだろう。
「…そっか。じゃあさ、今度いっしょに帝都に行こう。ずっと行ってなかっただろ」
「そうだな。…あっちだと、この町より早く本が出るかな」
作品名:アヴァロンは未だ遠く 作家名:シキ