ヨスガラ
「…父さんに聞いたけど、何も教えてもらえなかった。ごめん」
「そうか。さっさと逃げたほうがいいかもしれないな」
言って、アルバートは立ち上がった。まだすこしふらつくが、何故だろう以前よりも身体が軽いような気がする。いつもはしないようなことをしたのがよかったのだろうか。それとも自分が思いきった手段を取れることをしって、こころが軽くなったからだろうか。そんなことを思う。
「…逃げる?」
「国外へ。亡命をする」
「そんな!無茶だ」
「無茶?ああ、『そんな身体じゃ出来るわけない』ってことか」
リュカの顔が強張る。泣きそうな顔だ、とアルバートはどこか他人事のように思った。死んでもいいとずっと思っていたが、今、その気持ちはかれに微塵もない。生きよう、と強く思っていた。自分の生だ。謳歌しよう、と。そう思わせてくれた切欠は間違いなくあの日記である。あのなかで空の高さを歌い青さを羨んだ姫の日記は、アルバートを揺り動かしたのだ。
「何とでもなるさ。俺の人生だ、俺の好きに生きる」
「でも!」
そう嘯いて、アルバートは殆ど飾りのように壁に掛けられている宝剣を手に取った。ずしりと重く、よろめく。その肩を背後から掴み、リュカが情けない声を上げた。
「なら、俺も連れて行ってくれ!すこしは剣も出来る、邪魔にはならない!」
今更、という言葉が、アルバートの脳裏を過った。いとも簡単に傍を離れて、そして、そんなことをいうのか。アルバートは嘗ての、かれの友のアルバートではない。いつか失うのなら最初から何かを手にするつもりは、既になかった。
「駄目だ」
「何故だ、俺は、俺は今度こそ自分の意志で選択したいんだ…!」
リュカはすでに涙声だった。そういえば昔から、こいつは泣き虫だったなと思い出す。懐かしいような擽ったいような、そんな気持ちだった。
アルバートにかれを連れていく気持ちは微塵もない。それは、ただリュカの行為を、幼いアルバートのこころに刻まれた『裏切り』を怨んでのことではなかった。フローリアがかれを好いていることをアルバートは知っている。きっとエドワードや王妃もだ。だからこそリュカがフローリアの世話係になったと聞いた時、あまり怒りは湧かなかった。フローリアがしあわせなら、それでよかったから。
だからアルバートに、彼女からリュカを奪うようなことは出来なかった。彼女から自分を奪うというだけで、アルバートはつらく思っているのだから。
「アルバート、頼む…!」
「何度言っても無駄だ。下がれ」
「アルバート!」
「これは、命令だ」
出来るだけ冷酷を装ってそう言った時、少しだけ胸が痛んだ。リュカはアルバートにとってはたったひとりの友人だった。肩を掴んでいた手から力が抜け、ずるりと力なく落ちる。振り向かなかった。剣を杖代わりに、リュカはずるずると部屋の傍にある車椅子へ向かう。これではいやでも目立つだろうが志半ば、城も出ないうちに倒れるのはごめんだった。
「それでも、俺は…!」
「執事風情が王子に逆らうのか?」
決定打だった。リュカが柔らかな絨毯に膝をついたのが気配で分かる。アルバートは唇を噛み、苦しさを紛らわせるようにして部屋を出た。宛てなど何もない。だが、アルバートはこの自由にならないからだで、前に進まなければならなかったのだ。