ヨスガラ
「フローリアお嬢様!そんなことをしたら、また怒られます!」
王宮にある大きな中庭に、ずっとずっと昔から立っている林檎の木がある。その幹をするすると登る白い足に、少年は必死に声をかけていた。既にその足は地上から一番近くにある太い枝を踏み、さらに上へと登っていってしまう。
「フローリアお嬢様!」
「大丈夫よ!」
うつくしい絹のドレスは既に枝のあちこちに引っかかって酷い有様だった。少年は僅かに頭痛と胃痛を覚えながら、焦れたように少女の名を呼ぶ。フローリアはといえば一番手近にあった林檎をもいで、その真っ赤な果実に歯を立てている。少女が腰かけた枝はあまり太いとは言えず、思わず少年は誰か大人を探して頭を左右に振った。少年の身長よりずっと上にある木から落ちたら彼女がどうなるか、わからぬほど少年は子供ではない。
「…何、またやってるの」
しかし、少年と目があったのは忙しく洗濯物を入れたカゴを運ぶメイドではなく、中庭に続く階段の傍で読書をしていた子供である。かれはそういうと、ひとつため息をついて大樹の方へと向かって来た。ただしその棒のように細い足でではなく、かれが腰かけていた車椅子を動かすことによってである。その椅子には魔法が掛けられていた。かれが思った通りの方向へ、思った通りに動く魔法である。この国で作られたそれは、現代の魔術の結晶といっても良かった。
「フローリア」
車椅子の少年は、必死に少女の名を呼んでいた少年には目もくれずに木の幹の傍まで進んだ。膝の上にある本の表紙に手を乗せて、静かに少女の名を口にする。
「…フローリア、何をしてるんだ?」
「兄様」
その声を耳にした途端、少女は両手いっぱいに林檎を抱えたままに木の枝を蹴って跳んだ。後ろで少年が悲鳴を上げるのを、わずらわしそうに少年が目を細める。
「兄様に、林檎をあげようと思ったの」
しかし少女の華奢な足が固い大地に粉砕をされることは、なかった。暖かな春風が彼女の足下で巻き起こり、彼女はまるで階段でも降りるような軽い動作で車椅子の少年の前に降り立っていたのである。それは彼女の使う魔法であった。この国の子供たちは、まるで息をするように魔法を使う。ただし弱冠十四歳であるにもかかわらず彼女の魔力は、凄まじいものだった。選ばれ訓練された魔術師たちとそう大差のない魔力を持っている。そしてそれを、彼女は手足のように使いこなすのだ。
「甘くてとても美味しいわ」
少女はそう言って、兄の車椅子の前に膝をつく。そうしてその手の上に、一番大きな林檎を乗せた。胸を撫で下ろした少年が、それをじっと見ている。少女はその視線に気付いたか、少年にも林檎をひとつ差し出した。
「はい、リュカにもあげる」
少女は微笑んでいた。両手で少年の手を包み、きらきらとした大きな翡翠の目でその顔を見ている。少年はそれを受け取ると、僅かに頭を下げた。丸い林檎を指先で撫でる。それから車椅子の少年に、気遣わしげに声を投げた。
「中に入りませんか?風はお身体に障ります」
「平気」
少年は林檎に歯を立て、妹の揺れる金の髪を見ているようだった。それからじっと、自らの膝に視線を落とす。先ほど少女が起こした風によってか、本は頁を開いていた。
「この林檎で、アップルパイを焼いてもらうの。明日のパーティで食べるように!」
少女はそういって笑う。沢山穴のあいたドレスを揺らして、くるくると舞っていた。少年は微笑み、妹を見守っている。明日はかれと、そして彼女の誕生日パーティが行われることになっていた。国中から客が来て、かれらの生を祝うのだ。
「あまりリュカを困らせないようにな」
少年はそういって、膝の上の本に目をやった。開かれた頁には剣を掲げた騎士の挿し絵がある。大方、かれが好む軍記ものだろうとリュカは見当をつけた。
「兄様、どこへいくの?」
かれも、もしもこんな身体でなかったら、騎士のように剣を握って訓練に明け暮れていたであろうに。胸を刺す感傷に立ちつくすリュカの横を車椅子が滑るように走る。はっとしてリュカがそれを追うよりも、フローリアが声をかけるほうが早かった。
「この本の続きが、時計台の書庫にあるかも知れないから」
「駄目よ、兄様。あそこへ入ってはいけないと、父様に言われているじゃない!」
「大丈夫だよ」
そして兄はフローリアにやさしく微笑むと、そのまま庭を出ていった。少女は抱えていた林檎や食べかけのそれをばらばらと柔らかな草の上に落として、かれの背へと駆け寄ろうとする。立ちつくすリュカを振り向いて、急かすように名を呼んだ。
「リュカ!早く行きましょう!」
「で、ですが、あそこは危ないと、父も言っておりましたし」
「何言ってるのよ!じゃあ兄様をひとりで行かせるつもり?兄様に何かあったらどうするのよ!」
そんなに大きい声を出したら、聞こえてしまう。憐れむように聞こえてしまう。リュカは眉間に皺を寄せ、少女の腕を引いた。彼女はリュカを振り向くと、可愛らしい顔いっぱいに焦った表情を浮かべている。かれが向かうといった時計台は外庭の外れにあった。子供の足で走るより、かれの乗る車椅子のほうが早いかもしれない。
「俺が行って来ますから、お嬢様は待っていてください」
「いやよ!」
少女はそういうと、リュカの手を掴んで駆け出した。転びそうになりながら、リュカは泣きわめきたい気分で仕方なくそれに従う。先ほども一度もかれはリュカを見やしなかった。リュカにとってかれに冷たくされることは、身を切られるよりもつらい。
「フローリア様、どちらへ?」
フローリアが中庭から廊下へと抜けると、ちょうど通りかかった燕尾服の男に呼び止められた。リュカは足を止め、ぎくりと身を竦ませる。その声には聞き覚えがあった。あり過ぎた、と言ってもいい。
「え、エドワード…」
少女の肩を掴み、にこりとその男性は微笑む。後ろにいたリュカの身まで竦ませるような笑顔だ。
「またドレスを破いたんですね?まさかとは思いますが、また木のぼりでもなさったのですか?」
「お小言ならあとでたっぷり聞くわ!それより大変なの!」
「リュカ。お前がついていながら、なんていうことだ」
エドワードはそうして、怒った顔をしてリュカの腕を引っ張った。かれはリュカの父である。執事長をしているかれはフローリア相手にも遠慮がなく、無論リュカにはきついしつけをしていた。これは正座で説教を何時間くらうかわかったものではない。そんなことをしていたら、あのぼろぼろの階段ばかりの塔へ容易くかれは辿りついてしまうことだろう。
「もう少しでヴァイオリンのお時間です、フローリア様。早くドレスを着替えなければ」
「そんなことより、兄様が、兄様が――――」
「アルバートさまが時計台へ向かった」
腰を屈めたエドワードの脇を、言いざまリュカは擦り抜けた。その言葉を聞いて、エドワードがさっと表情を険しくする。そして駆け出した息子の背中を認め、かれはその名を叫んだ。
「待ちなさい!リュカ!」