勘違いの恋
あなたのことが、ずっと好きだと思っていました。
【 勘違いの恋 】
「 …… 何、そのカミングアウト。 」
微かに触れ続けていた細い肩が分かりやすくも固まった。二人並んだカウンター席で、それでもグラスを傾けながら普段通りに彩夏は笑う。アルコールの回り切った頭を何とか奮い立たせて、私はとりあえずの否定を絞り出した。
「 … 違うの。 いや、違わないけど、ちょっと違う。 」
煮え切らない私の態度に訝しげな苦笑を向けながら、何とはなしに眺め続けていたメニューを畳む。安くて早いチェーン店。こんな場所だって、本来彼女には似合わない。
彩夏とは高校時代からの付き合いになる。
級友として過ごしたのはたった一年間だけだったけれど、十七の春に出会って以来、彼女は何かと私のことを気に掛け続けてくれた。お互い進学・就職し、二十代後半に差し掛かった今でも、こうして思い出したかのように連絡を取り合っては、たまの休みに約束をつける。
計画は常に任せっきりで、私は彩夏からの電話を待つだけ。時間や場所、口にするものが変わった今でも、それだけはずっと変わらない。そんな私に文句を垂れつつ、それでも彩夏は笑ってくれた。あんたらしいね、と、いつだって。
元々人付き合いの苦手だった私にとって、常に絶妙な距離間を測りつつ接してくれる彩夏の存在は有り難かった。自分とは違い、昔から男女問わず友人の多かった彼女は、人それぞれの性格に対する関係の築き上げ方を既に心得ていたのだろうと思う。私の隣にいるときの彩夏は明るくて、優しくて、話し上手で、強くて、決して俯いたりしない。常に凛としていて、誰よりも美しかった。
こんなにも長く一緒にいながら、気が置けない間柄という訳でもない理由の全てはそこにある。
同じ場所に座って、同じ景色を見ながら、どんなに同じことに盛り上がっても、決して視線を合わせることはない。交わした会話は本当にどうでもいいようなことばかりで、お互いの内面に踏み込むような話は一切してこなかった。
変わらず十年間、傍からすれば首を傾げる関係だろうけれど、人に踏み込まれるような内面を持ち合わせていない私は何度もそれに救われた。
付かず離れず、泣くことも怒ることもない、ただ笑い合うだけの楽しい時間。彩夏の傍にいるだけで、不思議と心が落ち着いた。当たり障りがなさすぎたのだ。
ずっと、好きだと思っていた。
「 だからってどうしてそっちの方向に考えが飛ぶのよ。 」
「 … あは、自分でもよくわかんないや。 」
大きな息を吐き出して、彩夏が腕を組み直す。これは昔からの癖だった。
呆れたように微笑みながら、片手間な素振りで私の話を聞いてくれる。視界の隅で揺れる柔らかな髪。本当は脚も組み換えたいんだって、私はちゃんと知っている。この狭苦しい空間は、彼女の長い脚にとって些か窮屈すぎるのだ。
彩夏のことが好きだった。
私の全ては彩夏だけで、それは真実、そうだった。
「 … 好きだと思ってたけど、好きじゃなかった? 」
「 うん、全然好きじゃなかった。 」
「 え、何で私わざわざフラれてんの? 」
「 ごめんなさい! 」
「 うるさいわ! 」
忙しい毎日に後ろを振り返る暇はない。離れている時間が増えるにつれて、彩夏への想いは穏やかに風化していった。
大人の社会にも慣れ、それぞれの生活に追われる日々が続く。私は自然と彩夏以外の世界へ目を向けるようになった。
相互間で結ばれる初めての恋。感情の起伏がない穏やかな付き合いは最後の瞬間まで変わらなかった。緩やかに過ぎていく時間。想いを告げられたときも、別れを切り出されたときも、不思議と涙は出なかった。どの部分を切り取ったとしても私は幸せだったと思う。職場で知り合ったその人は自分よりも二つ年上で、纏う雰囲気は何処か彩夏に通じるものがあったけれど、男だった。
異性との関わり合いがなさすぎるために思い込む例はよくあるけれど、我ながらこれは酷いと思う。怠慢を理由に逃げ込むなんて、さすがに聞いたことがない。
人と付き合うには薄情すぎる性格。そんな私が、飲みに行こうと彩夏を誘った。言うなればこれは一種のけじめみたいなもので、そう、馬鹿だった自分との決別だから。
「 香織は私がいないと何も出来なかったもんね。 」
「 … うるさいなあ、ほんとのこと言わないでよ。 」
よかったじゃない、ちゃんと気付けて。
そう言って笑う彩夏の隣は、迷いが解けた今でも変わらず心地がよかった。
これは絶対に秘密だけれど。
高校生活最後の夏、教室で眠る彩夏の身体にそっと触れてみたことがある。
頬から首、首から肩、肩から腕、腕から指先。紛れもなく感じた彼女の体温。どれも珍しいものではないはずなのに、そのぬくもりに己の指を這わせることは何故かとてつもなく崇高な行為に思えて。静まり返った空間で、ともすれば永遠を感じてしまいそうな儀式に胸が高鳴った。
似通った身体。同じ構造。他を知らなかった私にとって、自分の世界を壊すことのないそれは何よりも甘く優しかった。受け入れることも、曝け出すことだって、おそらく容易に違いないと。見知ったものへの安心感を、私はずっと恋だと思い込んでいた。出会いも思い出も経験も、人に、彩夏に話せるようなものを何ひとつ持っていなかった自分自身を護りたくて。
私は恋をしていると、勘違いすることで助かりたかった。
「 … もう、私にドキドキしたりしない? 」
「 しないよ。 」
所詮は思い込みだったのだ。
大人になって、彩夏以外の常識を知った今ならわかる。これは恋じゃない。平静を装った表情の裏で今にも飛び出してしまいそうな心臓を必死になって抑えているのは、初めて彩夏に自分の話をしたからだ。
「 じゃあ私もひとつ、話しちゃおうかな。 」
グラスの氷が音を立てる。
彩夏の瞳が私を射抜いた。
「 子供が、できたの。 」
数秒遅れた。
聡い彩夏にとって、それは十分過ぎる程の時間だった。
【 勘違いの恋 】
「 …… 何、そのカミングアウト。 」
微かに触れ続けていた細い肩が分かりやすくも固まった。二人並んだカウンター席で、それでもグラスを傾けながら普段通りに彩夏は笑う。アルコールの回り切った頭を何とか奮い立たせて、私はとりあえずの否定を絞り出した。
「 … 違うの。 いや、違わないけど、ちょっと違う。 」
煮え切らない私の態度に訝しげな苦笑を向けながら、何とはなしに眺め続けていたメニューを畳む。安くて早いチェーン店。こんな場所だって、本来彼女には似合わない。
彩夏とは高校時代からの付き合いになる。
級友として過ごしたのはたった一年間だけだったけれど、十七の春に出会って以来、彼女は何かと私のことを気に掛け続けてくれた。お互い進学・就職し、二十代後半に差し掛かった今でも、こうして思い出したかのように連絡を取り合っては、たまの休みに約束をつける。
計画は常に任せっきりで、私は彩夏からの電話を待つだけ。時間や場所、口にするものが変わった今でも、それだけはずっと変わらない。そんな私に文句を垂れつつ、それでも彩夏は笑ってくれた。あんたらしいね、と、いつだって。
元々人付き合いの苦手だった私にとって、常に絶妙な距離間を測りつつ接してくれる彩夏の存在は有り難かった。自分とは違い、昔から男女問わず友人の多かった彼女は、人それぞれの性格に対する関係の築き上げ方を既に心得ていたのだろうと思う。私の隣にいるときの彩夏は明るくて、優しくて、話し上手で、強くて、決して俯いたりしない。常に凛としていて、誰よりも美しかった。
こんなにも長く一緒にいながら、気が置けない間柄という訳でもない理由の全てはそこにある。
同じ場所に座って、同じ景色を見ながら、どんなに同じことに盛り上がっても、決して視線を合わせることはない。交わした会話は本当にどうでもいいようなことばかりで、お互いの内面に踏み込むような話は一切してこなかった。
変わらず十年間、傍からすれば首を傾げる関係だろうけれど、人に踏み込まれるような内面を持ち合わせていない私は何度もそれに救われた。
付かず離れず、泣くことも怒ることもない、ただ笑い合うだけの楽しい時間。彩夏の傍にいるだけで、不思議と心が落ち着いた。当たり障りがなさすぎたのだ。
ずっと、好きだと思っていた。
「 だからってどうしてそっちの方向に考えが飛ぶのよ。 」
「 … あは、自分でもよくわかんないや。 」
大きな息を吐き出して、彩夏が腕を組み直す。これは昔からの癖だった。
呆れたように微笑みながら、片手間な素振りで私の話を聞いてくれる。視界の隅で揺れる柔らかな髪。本当は脚も組み換えたいんだって、私はちゃんと知っている。この狭苦しい空間は、彼女の長い脚にとって些か窮屈すぎるのだ。
彩夏のことが好きだった。
私の全ては彩夏だけで、それは真実、そうだった。
「 … 好きだと思ってたけど、好きじゃなかった? 」
「 うん、全然好きじゃなかった。 」
「 え、何で私わざわざフラれてんの? 」
「 ごめんなさい! 」
「 うるさいわ! 」
忙しい毎日に後ろを振り返る暇はない。離れている時間が増えるにつれて、彩夏への想いは穏やかに風化していった。
大人の社会にも慣れ、それぞれの生活に追われる日々が続く。私は自然と彩夏以外の世界へ目を向けるようになった。
相互間で結ばれる初めての恋。感情の起伏がない穏やかな付き合いは最後の瞬間まで変わらなかった。緩やかに過ぎていく時間。想いを告げられたときも、別れを切り出されたときも、不思議と涙は出なかった。どの部分を切り取ったとしても私は幸せだったと思う。職場で知り合ったその人は自分よりも二つ年上で、纏う雰囲気は何処か彩夏に通じるものがあったけれど、男だった。
異性との関わり合いがなさすぎるために思い込む例はよくあるけれど、我ながらこれは酷いと思う。怠慢を理由に逃げ込むなんて、さすがに聞いたことがない。
人と付き合うには薄情すぎる性格。そんな私が、飲みに行こうと彩夏を誘った。言うなればこれは一種のけじめみたいなもので、そう、馬鹿だった自分との決別だから。
「 香織は私がいないと何も出来なかったもんね。 」
「 … うるさいなあ、ほんとのこと言わないでよ。 」
よかったじゃない、ちゃんと気付けて。
そう言って笑う彩夏の隣は、迷いが解けた今でも変わらず心地がよかった。
これは絶対に秘密だけれど。
高校生活最後の夏、教室で眠る彩夏の身体にそっと触れてみたことがある。
頬から首、首から肩、肩から腕、腕から指先。紛れもなく感じた彼女の体温。どれも珍しいものではないはずなのに、そのぬくもりに己の指を這わせることは何故かとてつもなく崇高な行為に思えて。静まり返った空間で、ともすれば永遠を感じてしまいそうな儀式に胸が高鳴った。
似通った身体。同じ構造。他を知らなかった私にとって、自分の世界を壊すことのないそれは何よりも甘く優しかった。受け入れることも、曝け出すことだって、おそらく容易に違いないと。見知ったものへの安心感を、私はずっと恋だと思い込んでいた。出会いも思い出も経験も、人に、彩夏に話せるようなものを何ひとつ持っていなかった自分自身を護りたくて。
私は恋をしていると、勘違いすることで助かりたかった。
「 … もう、私にドキドキしたりしない? 」
「 しないよ。 」
所詮は思い込みだったのだ。
大人になって、彩夏以外の常識を知った今ならわかる。これは恋じゃない。平静を装った表情の裏で今にも飛び出してしまいそうな心臓を必死になって抑えているのは、初めて彩夏に自分の話をしたからだ。
「 じゃあ私もひとつ、話しちゃおうかな。 」
グラスの氷が音を立てる。
彩夏の瞳が私を射抜いた。
「 子供が、できたの。 」
数秒遅れた。
聡い彩夏にとって、それは十分過ぎる程の時間だった。