携帯彼氏5
「ご命令通りにできたと思ったのですが……」
命令。そうだこいつは誰よりも何よりも、俺だけの命令を聞く携帯電話だ。まさか、自分の意思で動くとは思えない。
「…………俺は、お前になんて命令した?」
「はい、ご自宅に到着した途端、歩けないとおっしゃったので、靴を脱がせてベッドまでお運び致しました」
「ベッドまで…………」
「その後、一人でお休みになるのは嫌だとおっしゃいました。なので、私も隣に入り、横になりました。その後」
「わあああ!もういい、しゃべるな!」
「は、さようでございますか」
ベッドの上できちんと座っているマヌケな大男の服は乱れていない。俺の格好も昨夜のままだ。スーツの上は脱いだらしく、シャツ姿にはなっているが。ああ畜生、お気に入りのイタリア製のズボンが皺だらけだ。
「な、何もなかったんだよな?」
「ナニ……でございますか?」
金髪頭を傾げて、ヒロは真剣に考えている。あの様子なら何も無かったんだろう。
いいや待て待て、こいつは人間じゃない、規格ハズレの携帯電話なんだ。自分が何をやらかしたかわかっていないかもしれない。
「べ、ベッドに入って、それからどうした……?」
くそっ、口にするのになんでこんなにこっ恥ずかしいんだ!野郎相手に赤くなるとか、おかしいだろう!
「はい、ご主人様は寒い寒いとおっしゃいまして、私にあたためろと命令を」
「そんな事を言ったのか?俺が!」
「暖房器具を探してきますと私が言いましたら、お前でいいやとお答えに」
「お、お、俺はそんな事は言ってない!」
つまり俺は、こいつに一緒に寝るように命令した挙げ句、こいつに抱きついて……そ、そんな事をした覚えはないぞ!
「幸いに人間形の私は常に36.7℃の体温を保っておりまして、ご主人様はあたたかいとお褒めくださいました。いやあ、お役にたてて嬉しい限りです」
「しみじみ言うなー!」
「はあ……」
つまりつまり、俺は自分からこいつに抱きついて、しかも一晩ぐっすりとこいつの腕の中で寝こけたんだ。そういう事だ。
「最悪だ…………」
わずかにしか無かった頭痛が急に強くなった気がする。よりによって、男と一緒のベッドに寝て、しかも自分から誘ったとか、最悪以外のなにものでもない。
そして何より、とにかく俺は幸せだったのだ、奴の腕に抱かれて、やたらあったかくて安心した事だけは何故か覚えていた。
低く優しい声があたたかい胸に響いて、押し当てた耳から、頬から、伝わってくる。優しい腕が肩を抱く。あんな安らぎを今まで感じた事はなかった。
いや、違う。
遠い昔、一度だけ。一度だけ、俺を抱擁してくれた人がいる。
忘れようとした、でも忘れられなかった。離れようとした。
そのくせ、携帯番号を消せずにいる。俺の無様な、未練の証拠。
月に一度だけくるショートメッセージ。消したくて消せなくて、何度も読み返す、俺の秘密。
それを、こいつは知っているんだ。当たり前だなんて言ったってこいつは俺の……
携帯、だ。
あの人じゃない。
俺はこいつを、ただの機械を、あの人の代わりにしたんだ。
「おい」
「はいっ何でしょう!」
「忘れろ」
「はい?」
「忘れろって言ったんだ。昨日の夜から今朝まで俺が言った事は忘れろ」
「はあ。命令コマンドの記録を消去すれば宜しいでしょうか?」
「そうだ、消せ」
そうだこいつは携帯、ただの機械。会話も思い出もボタン一つで消去できる機械だ。
あの人じゃない。あの人の代わりになんかなれない。
「消去する時間範囲を指定してください」
「ああ?えーと、じゃあ昨日の夜の三時から、今までだ」
「受信メールの再生をしましたが、メールを消去しますか?」
「そ、それはダメだ!」
「メールを消去しないと再生の記録は残りますがどうしますか?」
「ぐ……う、うまいことメールだけ残せよ」
俺も口ごもったけどヒロも困った顔をした。
「申し訳ございません、どうしてもできません」
目をくるくるさせながら、途端に肩を丸めてしょんぼりする。
ヒロは嘘をつかない。こいつは、嘘がつけない。
そうだ、俺を裏切ったりしない。俺を傷つけるようなことは絶対に……
忘れた筈の記憶がどっと押し寄せた。慌てて頭の中から振り払っても、感情だけが俺の中で渦巻いてしまう。
「な、泣かないでください」
オロオロしながらベッドから降り、床に座り込んだ俺にそっと手が触れた。
おずおずと肩に触れた手は、大きくて温かかった。華奢で冷たかった、記憶の中のあの手とはまったく違う。
「申し訳ございません、私の機能が悪いばかりに」
「謝るなよ、かまわないんだそんな事は」
「…………でも、泣いていらっしゃいます」
「泣いてねえよ」
「…………………」
ヒロは情けない形に眉を下げたまま、俺の肩に腕を廻し、そっと自分の胸の中に抱え込んだ。
「あの、こうした方が、よいかと思いまして」
夢でもない、酔っぱらってもいない。こんな素面の時に男と抱き合う趣味なんかない。
だけどヒロの胸は大きくて、温かくて、情けないことに俺はしばし奴の肩口に顔をうずめた。
気持ちが落ち着いたら、ヒロの腕が途端にうっとうしく感じた。俺の長所は気持ちの切り替えが早いところだ、情がないと言われて何人もの女と別れる原因にもなったけど。
どけ、と奴を押しのけて洗面所に向かい顔を洗えば、センチメンタルな気分が薄れた。
いつまでも過去を引きずってばかりはいられない。今日働かなきゃ明日の飯が食えない。
両頬をぱんと叩いて気合いを入れた。学生みたいな甘っちょろい気分は捨てろ、今の俺は昔の俺とは違う。
今の俺は、優秀なホストなんだ。女たちの心を掴む、夜の花。簡単に騙されるような人間じゃない。
部屋に戻ったら、俺に押しのけられた格好のまんまでヒロは床に座っていた。正座を崩してぺたんと座り込んだ格好は、でかいぬいぐるみにも見えなくはない。ごついけど。
ヒロは顔を洗って戻ってきた俺を、なぜか悲しそうな目で見上げた。心配そうなその顔がなんだかおかしくて笑いたくなる。
そんなに俺のことが心配なのか。携帯って、こんなに持ち主に懐くものなのか?まるで飼い犬だ。
そう思うと、このでっかい役立たずがなんだか可愛く見えてくるから不思議だ。
「なにぼやぼやしてるんだ、行くぞ」
「はい?」
「仕事だ。お前も行くんだろ、俺としちゃ留守番してくれる方がありがたいけどな」
「いえ!お供いたします!私を持ち歩いていただいて、嬉しいです!」
現金な様子で立ち上がり、ヒロはにっこりと俺の頭を見下ろした。
………携帯が俺より背が高いってのは、やっぱり腹が立つな。やっぱり可愛くない。