携帯彼氏5
俺の携帯に一つ新しい機能が増えた。それは、酒が飲めるという機能だ。
なんでも、防水機能はちゃんと働いている、と本人が自慢していたので間違いはないと思う。
……俺は酔っている。酔っているからこんな妙ちきりんな事を聞いてもふーん、程度の返事で済ましているんだ。大体、携帯が酒飲むとか、自分の機能を自慢するとか、そもそも話すって事がありえない。
だが今、深夜の街を走っているタクシーの後部座席に乗ってるのは、俺と、俺の携帯だと名乗っている大男だけだ。
「アルコールが含まれた飲料というのは人間を酩酊させるのですねえ。幸い、私の機能にはなんら影響はありませんが」
人間の生活はとっても面白いです、と目をキラキラさせながら、さっきから延々と喋り続けている。興奮がなかなか治まらない様子は、まるで遊園地帰りの子供だ。
「おい」
「はいっ!」
「お前うるさい。ちょっと黙ってろ」
「はいっ!」
そっけなくあしらい過ぎたかと思ったけど、ヒロは素直に口を閉じて、やたらキョロキョロしだした。タクシーの窓の外に流れる景色が珍しいらしい。
本当に子供だ。
呆れて文句を言う気も無くなった。奴にとっては世界のあらゆるモノが珍しいんだろう。なんてったって携帯だし。
携帯なんだよなあ。
俺の肩に触れている奴の肩はほのかに温かい。どっしりした感触は人間そのものだ。
俺はぼんやりと運転席のバックミラーを眺めた。暗がりの中に映る隣の男は、なんだかずっと前から知っていた人間みたいに見える。でかい目、でかい口、警戒心がまったくない間抜けな顔なのに、なんで懐かしい気持ちになるんだろう。
ふと腕に妙な感触が触れた。隣のでかい奴が、何故か真剣な顔で俺の右腕を指先でつついている。
「なんだよ?」
俺が振り向いてもヒロは何故か口を開かない。
「なんだってんだよ?」
「んんんーんん」
「…………………わかった。口を開いてもいいから、話せ」
「はい、メールが届いております」
「…………後で見るから、ほっていてくれ」
「はい」
暗闇の中で左手首にしている時計を斜めに見下ろした。午前三時十八分。
こんな時間にメールをよこすのは大抵は店長か同僚だ。客の誰かなら急いで返信するけど、男相手なら返事は後でもいい。俺は程よく酔っていたし、疲れてもいた。
ヒロはそれきりまた口を閉ざして、キョロキョロと周りを見回し、俺の耳元に小さな声で囁いた。
「送信元はアドレス帳に電話番号だけ登録されている方です」
「ああ、うん」
俺はぼんやりと返事をし、そして酔いで鈍った頭でしばらく考えた。
「電話番号だけ……?」
そんな奇妙な登録なんてしていただろうか?
俺の商売にとって携帯は命綱だ。顧客名簿にデータバンクも兼ねている。そんな中に、電話の番号だけ登録してあるなんておかしな事はしていない筈だ。
「はい、お名前もメールアドレスも登録していない方からです。ショートメッセージが届いております」
ショートメッセージ。
それが何かを理解した途端、俺はヒロの胸倉を掴んでいた。
「そいつを見せろ……!」
酔っぱらってぐったりしていた俺が突然飛び起きた上にいきなり凄んだせいで、ヒロは驚きのあまり泣きそうな顔をした。
奴の口が中途半端に開かれたまま震えているのが、暗いタクシーの中でもはっきり見える。
やりすぎた。すぐに後悔の念がわいて俺は手を放した。
そうだ、こいつは知らないんだ、そのメールが誰から送られてきたのか、送り主がどんな奴か、そいつが俺とどんな関係かってことも。
そうだ、これは俺一人の秘密だ。
誰も知らない。秘密がばれたと怖がる必要なんか、ない。
ヒロは携帯だ。便利な道具だ。人間じゃ、ない。知られて困ることなんてないんだ。
ヒロはうなだれる俺を見下ろしながら、悲しげに囁いた。
「も、申し訳ございません。今の私には液晶モニターがないのでお見せできません……」
俺の剣幕に驚いたんじゃないのか。俺の願いを叶えられないのがそんなに悲しいのか。見上げたそこに、震える姿があった。大きな目に涙を溜めて、悔しそうに唇を結んで。
バカじゃないのかこいつ。
頭を一発叩いてやりたい、と思ったのに、なぜだか俺の目が急に熱くなった。
「……それくらいわかってる。………読めよ」
「は、あの、ここでお読みしてよろしゅうございますか?」
「俺が読めって言ってるんだ、さっさと読め」
「あ、はい、申し訳ございません。では」
ヒロはすう、と息を吸う。いつもはどこか子供っぽい話し方のくせに、メールの内容を話す時はまるで送信元の人間とそっくりな口調で話し出す。
だから、こいつがいきなり、低く優しい声で話しても俺は驚かなかった。
『元気か。たまには連絡してこいよ。僕は元気だ』
温かな、ゆっくりした話し方。俺が何より大切にしてきた、そして遠ざけてきた懐かしい思い出。
目を閉じれば、すぐ傍にメールを送ってくれた人がいるような気がした。
「……………もう一度、読んでくれ」
『元気か。たまには連絡してこいよ。僕は元気だ』
ヒロの肩に頭を乗せれば、低い声は直接俺の体に響いてくる。
俺は酔っていた、だからずっとヒロにもたれかかったまま、何度も何度もメッセージを繰り返し再生させた。そう、いつも独りきりの部屋で、夜明け前に何度も携帯を開けたのと同じ事だ。
だけど自分を支えてくれる温かな身体が、響いてくる優しい声が、何よりも俺を幸せにした。そして、俺を何より切なくさせた。
翌朝の気分は最低だった。
二日酔いは大したことはなかった。俺はこうみえても酒にはそこそこ強いのだ。水商売には向いていると我ながら思う程度には、だ。だから、酒のせいじゃない。
俺を最低な気分にさせたのは、目覚めて最初に見た光景のせいだ。
「おはようございます!」
体操のお兄さんかと言いたくなるほど底抜けに明るい挨拶は、俺の頭の上から降ってきた。
「!」
寝ぼけ眼に映ったのは、黒い服の胸元。目線を上げれば、屈託のない笑顔。俺の体に巻きついた長い腕。ベッドから見上げる、見慣れた天井。
つまり、俺はなぜか、ヒロの腕の中に抱かれたまま眠っていたのだ。
「わー!」
俺は叫んで奴の腕の中から逃げ出し、ベッドから飛び降りた。なんだなんだ、なんでこうなったんだ!
「出勤時間にはまだ時間がございますが、もう起きられますか?」
「なっなっなっ、何をした?!」
「はい?」
ベッドの下に転げ落ちた俺が座ったまま後ずさるのを、ヒロはにこにこと見ている。むくりと起き上がり、やつはベッドの上で正座をした。
「何もまだしておりませんので、ご命令をどうぞ」
「違う!今じゃない、き、昨日の夜だっ!」
「はあ」
「はあ、じゃない!なんでお前が、いや、俺が、お前の………」
腕の中に抱かれていた。
温かな胸、優しい手、低い囁き。
思い出した途端に頭に血が登った。俺は、俺は一体、なんでまた男なんかに。いや違う、携帯なんかに。ああもうややこしい!
「はい、お休みになられるお手伝いを致しました。お目覚めの気分はいかがですか?」
「最悪だよ!」
「さ、さようでございますか……」
大男はしょんぼりと肩を落とし、シーツの上にのの字を書いている。