双子座の流星
満天の星空とは言えないものの、いつもは少なからず星の瞬いている空が、その夜は暗い灰色に覆われていた。
「曇っているね」
「…うん」
とあるマンションのベランダで、親子が空を見上げていた。
その日は12月14日の深夜、三大流星群の一つであるふたご座流星群が空を放射状に流れる様子を、もっとも良く観察できる日だと予測がたてられていた。しかし親子の頭上に広がる空には灰色の闇が広がるだけで、その僅かな合間にすら星の輝きは一つもなかった。
「じゃあ、寝よっか。明日も学校でしょう」
「…うん」
彼は静かに頷いた。
優しく言う母親にとっては、流れ星を見られないことに対して息子が駄々をこねないか心配であったが、どうやらそこまで興味のあったわけでもないらしく落ち着いていたため、安心した。
小学校に上がったばかりのその少年は眠そうに目を細め、大きくあくびをしてから、冷たい風の流れるベランダから部屋に戻った。彼にしてみれば、そこまで楽しみにしていたことではない。どうしても流れ星を眺めたかったというわけではなかった。流れ星が見られるというのも、その日の朝に知ったことだ。ただいつもより夜遅くまで起きていたというだけで、彼にとってはむしろ、今すぐにでも寝床につく方が大事なことであった。
上着を脱ぎ、今にも倒れそうになる体を支えながら寝室の布団に辿り着きそのまま倒れると、やっと目を閉じられるという安心感とともに、少年はすぐに眠りに落ちた。
しいんとした静寂の中に、一つの声が聞こえた。知らない人の声だ。その声は囁くように一回呼びかけただけだが、少年の耳にはっきりと聞こえた。少年は目を開けた。
暗かった。掛け布団から出ていない。自分の布団の上だ。周りを見渡すが、真っ暗な闇があるだけで、光の筋すら見えなかった。
まだ夜なんだ、少年は思った。こんな時間に起きていれば、母親に怒られてしまう。だが確かに聞こえたその声が気になった。そして不思議と、眠気が覚めていた。しばらくすると目が慣れてきて、部屋の輪郭が見えた。いつもの寝室だ。隣では母親の寝息が聞こえる。少年は緊張しながら、できるだけ音を立てないように体を起こし、寝室を出た。廊下は寒く、靴下の裏から冷たい感触が伝わった。少年は足踏みをした。
少年は疑問に思った。いつもは自分が目を覚ませば、なぜだか、夜遅くでも必ず母親も目を覚ますのに、その夜はよく眠っていた。
「―――」
また聞こえた。囁くような声。居間からだ。誰の声だろう。大人の声じゃない。細く、そう、自分と同じくらいの、子供の声だ。少年は居間に着いた。窓が青白く輝いている。もしやと思って窓に近づくと、空に一面の星が浮かんでいた。
晴れている!彼は無性に嬉しくなり、近くにあった上着を羽織りながら窓の鍵を開け、ベランダに出た。なぜだろう、そんなに期待していたわけでもないのに、心が躍っている。冷気を入れないように窓を閉め、手すりを掴みながらまっすぐ上を見つめた。紛れもない星空だ。
「こんばんは」
星の一つ一つの輝きを確認していると、唐突に真横で声がした。鈴を鳴らすような、澄んだ声だ。少年が驚いて振り返ると、すぐ横の手すりに一人の少女が腰掛けていた。―――危ない!そんなところに座っていたら、落ちてしまう。
少女は白く薄い一枚の洋服を纏っているだけだった。寒くないのだろうか。そんな素振りは見えないけれど。
「…?きみは誰?そんなところにいると危ないよ」少年は声を抑えて言った。
「こんばんは、と言っているのよ」
少女は優しく微笑んだ表情のまま、繰り返した。
「…こんばんは」
とりあえず挨拶を返すと、少女はにっこりと笑った。綺麗な笑顔だった。
「私の声が届いたんだね」
「あれはきみの声だったの?僕を起こしてくれたの?」
「そうね、あなた、流れ星を見たかったんでしょう?」
少年は少し考えた。別に、強く希望していたわけではない。
「…いや、そこまで見たかったわけじゃないんだ」
「あら、そうなの?それにしては、さっきはとっても嬉しそうな顔をしていたわ」
「そう?」
確かに、その星空を見たとき、胸の底が弾けるような気分になった。それは自分では不思議だった。
「それでも、最初は見たいと思ったんでしょう。どうして?ただ単に、流れ星が珍しいから?」
「うん…それもあるけど」
「あるけど?」
「僕の妹に、星空を見せてやりたかったんだ」
「妹さんがいるの?」
「うん、でもうちにはいなくて、今は遠くで父さんと一緒に暮らしているんだ」
「そうなの…あら、聞いちゃいけなかったかしら」
「ううん、そんなことないよ。だから、今度会ったときに、流れ星の写真を見せてあげようと思ったんだ」
少年は上着のポケットからカメラを取り出した。苦労して使い方を覚えたデジタルカメラだ。とても安いものらしいが、絶対に無くさない、壊さないという条件で、母に買ってもらった宝物だ。
「流れ星の?」
「そう、約束なんだ。次に会うときまでに、お互いの生活で、一番綺麗だと思ったものを見せ合おうって」
「素敵な約束ね」
そう言って、少女はまた笑顔になった。その笑顔に、少年は照れたようにそっぽを向いた。自分の口が笑ってしまいそうになるのをごまかして、顔を掻いた。
「でもね、流れ星が見えるのは、ほんの一瞬だけなのよ。そのカメラで見つけて撮っている暇なんてないと思うわ」
少女は優しく言った。その言葉に、少年は衝撃を受けた。
「そうなの?」
「ええ、そうよ」
彼は呆然として空を見上げた。ずっと見上げているけれど、流れ星はまだ一つも見えない。こんなにたくさんの星が瞬いているのに、そのどれもが動き出す気配がなかった。長い間待たないと見えないのだろうか。待ったとしても、ほんの一瞬しか見えないなんて。
少年は残念に思った。空に向けて息を吐くと、白い煙となって拡散して消えた。
「撮りたい?」少女が言った。
「え?」
「流れ星の写真、撮りたいんでしょう」
「…うん」
「どうしても?」
「…なるべく」
「なるべく?」
「じゃあ、どうしても。できるの?」
「できるわ」
「どうやって?」
彼女は笑って、彼に右手を差し出した。
まさか、と彼は思った。おとぎ話じゃあるまいし、何をするつもりだろう、と考えた。考えたが、気づいたらその手を取っていた。
少女の手は柔らかく、その白さとは対照的に、とても暖かかった。手を取った途端、それまで頬や足に感じていた冷たさが一気に消え、体が暖かい空気に包まれたような感覚になった。一体どういうことだろうと少女の顔を見上げるが、彼女は静かに微笑みかけるだけだった。そして、体に重力を感じなくなった。
少女がくいと手を引くと、彼の体は簡単に浮き上がった。そしてそのまま二人はふわりとベランダの柵を越え、宙に浮いた。下を見ると、遙か彼方に地面があった。不思議と恐怖がなかった。ついこの間、観覧車に乗ったときはとても怖かったのを覚えているのに。少女の手から伝わる暖かさが、彼の緊張を解してしまっているみたいだった。上を見ると、星空があった。
「じゃあ、行きましょう」
「曇っているね」
「…うん」
とあるマンションのベランダで、親子が空を見上げていた。
その日は12月14日の深夜、三大流星群の一つであるふたご座流星群が空を放射状に流れる様子を、もっとも良く観察できる日だと予測がたてられていた。しかし親子の頭上に広がる空には灰色の闇が広がるだけで、その僅かな合間にすら星の輝きは一つもなかった。
「じゃあ、寝よっか。明日も学校でしょう」
「…うん」
彼は静かに頷いた。
優しく言う母親にとっては、流れ星を見られないことに対して息子が駄々をこねないか心配であったが、どうやらそこまで興味のあったわけでもないらしく落ち着いていたため、安心した。
小学校に上がったばかりのその少年は眠そうに目を細め、大きくあくびをしてから、冷たい風の流れるベランダから部屋に戻った。彼にしてみれば、そこまで楽しみにしていたことではない。どうしても流れ星を眺めたかったというわけではなかった。流れ星が見られるというのも、その日の朝に知ったことだ。ただいつもより夜遅くまで起きていたというだけで、彼にとってはむしろ、今すぐにでも寝床につく方が大事なことであった。
上着を脱ぎ、今にも倒れそうになる体を支えながら寝室の布団に辿り着きそのまま倒れると、やっと目を閉じられるという安心感とともに、少年はすぐに眠りに落ちた。
しいんとした静寂の中に、一つの声が聞こえた。知らない人の声だ。その声は囁くように一回呼びかけただけだが、少年の耳にはっきりと聞こえた。少年は目を開けた。
暗かった。掛け布団から出ていない。自分の布団の上だ。周りを見渡すが、真っ暗な闇があるだけで、光の筋すら見えなかった。
まだ夜なんだ、少年は思った。こんな時間に起きていれば、母親に怒られてしまう。だが確かに聞こえたその声が気になった。そして不思議と、眠気が覚めていた。しばらくすると目が慣れてきて、部屋の輪郭が見えた。いつもの寝室だ。隣では母親の寝息が聞こえる。少年は緊張しながら、できるだけ音を立てないように体を起こし、寝室を出た。廊下は寒く、靴下の裏から冷たい感触が伝わった。少年は足踏みをした。
少年は疑問に思った。いつもは自分が目を覚ませば、なぜだか、夜遅くでも必ず母親も目を覚ますのに、その夜はよく眠っていた。
「―――」
また聞こえた。囁くような声。居間からだ。誰の声だろう。大人の声じゃない。細く、そう、自分と同じくらいの、子供の声だ。少年は居間に着いた。窓が青白く輝いている。もしやと思って窓に近づくと、空に一面の星が浮かんでいた。
晴れている!彼は無性に嬉しくなり、近くにあった上着を羽織りながら窓の鍵を開け、ベランダに出た。なぜだろう、そんなに期待していたわけでもないのに、心が躍っている。冷気を入れないように窓を閉め、手すりを掴みながらまっすぐ上を見つめた。紛れもない星空だ。
「こんばんは」
星の一つ一つの輝きを確認していると、唐突に真横で声がした。鈴を鳴らすような、澄んだ声だ。少年が驚いて振り返ると、すぐ横の手すりに一人の少女が腰掛けていた。―――危ない!そんなところに座っていたら、落ちてしまう。
少女は白く薄い一枚の洋服を纏っているだけだった。寒くないのだろうか。そんな素振りは見えないけれど。
「…?きみは誰?そんなところにいると危ないよ」少年は声を抑えて言った。
「こんばんは、と言っているのよ」
少女は優しく微笑んだ表情のまま、繰り返した。
「…こんばんは」
とりあえず挨拶を返すと、少女はにっこりと笑った。綺麗な笑顔だった。
「私の声が届いたんだね」
「あれはきみの声だったの?僕を起こしてくれたの?」
「そうね、あなた、流れ星を見たかったんでしょう?」
少年は少し考えた。別に、強く希望していたわけではない。
「…いや、そこまで見たかったわけじゃないんだ」
「あら、そうなの?それにしては、さっきはとっても嬉しそうな顔をしていたわ」
「そう?」
確かに、その星空を見たとき、胸の底が弾けるような気分になった。それは自分では不思議だった。
「それでも、最初は見たいと思ったんでしょう。どうして?ただ単に、流れ星が珍しいから?」
「うん…それもあるけど」
「あるけど?」
「僕の妹に、星空を見せてやりたかったんだ」
「妹さんがいるの?」
「うん、でもうちにはいなくて、今は遠くで父さんと一緒に暮らしているんだ」
「そうなの…あら、聞いちゃいけなかったかしら」
「ううん、そんなことないよ。だから、今度会ったときに、流れ星の写真を見せてあげようと思ったんだ」
少年は上着のポケットからカメラを取り出した。苦労して使い方を覚えたデジタルカメラだ。とても安いものらしいが、絶対に無くさない、壊さないという条件で、母に買ってもらった宝物だ。
「流れ星の?」
「そう、約束なんだ。次に会うときまでに、お互いの生活で、一番綺麗だと思ったものを見せ合おうって」
「素敵な約束ね」
そう言って、少女はまた笑顔になった。その笑顔に、少年は照れたようにそっぽを向いた。自分の口が笑ってしまいそうになるのをごまかして、顔を掻いた。
「でもね、流れ星が見えるのは、ほんの一瞬だけなのよ。そのカメラで見つけて撮っている暇なんてないと思うわ」
少女は優しく言った。その言葉に、少年は衝撃を受けた。
「そうなの?」
「ええ、そうよ」
彼は呆然として空を見上げた。ずっと見上げているけれど、流れ星はまだ一つも見えない。こんなにたくさんの星が瞬いているのに、そのどれもが動き出す気配がなかった。長い間待たないと見えないのだろうか。待ったとしても、ほんの一瞬しか見えないなんて。
少年は残念に思った。空に向けて息を吐くと、白い煙となって拡散して消えた。
「撮りたい?」少女が言った。
「え?」
「流れ星の写真、撮りたいんでしょう」
「…うん」
「どうしても?」
「…なるべく」
「なるべく?」
「じゃあ、どうしても。できるの?」
「できるわ」
「どうやって?」
彼女は笑って、彼に右手を差し出した。
まさか、と彼は思った。おとぎ話じゃあるまいし、何をするつもりだろう、と考えた。考えたが、気づいたらその手を取っていた。
少女の手は柔らかく、その白さとは対照的に、とても暖かかった。手を取った途端、それまで頬や足に感じていた冷たさが一気に消え、体が暖かい空気に包まれたような感覚になった。一体どういうことだろうと少女の顔を見上げるが、彼女は静かに微笑みかけるだけだった。そして、体に重力を感じなくなった。
少女がくいと手を引くと、彼の体は簡単に浮き上がった。そしてそのまま二人はふわりとベランダの柵を越え、宙に浮いた。下を見ると、遙か彼方に地面があった。不思議と恐怖がなかった。ついこの間、観覧車に乗ったときはとても怖かったのを覚えているのに。少女の手から伝わる暖かさが、彼の緊張を解してしまっているみたいだった。上を見ると、星空があった。
「じゃあ、行きましょう」