ヤドカリ
6
あの日、葵は「宿賃代わり」だと言った。始めこそ憤りや呆れを感じたけれど、一度知ってしまった彼女の肌の温もりを忘れることは簡単にはいかず、私は何食わぬ顔で葵をまた家に誘い込んでいた。
実際に葵を家に誘ってみれば、いつものように軽い調子でやってきて、冗談めかして「宿賃貰おうかな」と言ってみれば、これまた軽く「いいよ」と言われた。
葵にとっては単なる遊びのようなものなんだろう。バイトで疲れているのに、遠い自宅に帰るのが面倒臭いというのもあるのかもしれない。とにかく、葵は私が誘えば軽く応じてくれた。そんな彼女に合わせて私は本心をひた隠しにしたまま、体だけの関係を求めている振りをして葵の柔肌に身を埋め続け、快楽に溺れていた。
きっとここが窮屈だと思えば葵は次の宿を求めて出て行くのだろう。
まるで、ヤドカリみたいだと思った。自分の体に合わなくなれば、それまで住み着いていた貝殻を捨て、また自分に合った貝殻を求め渡り歩く。葵はそんなヤドカリなんだ。
「ヤドカリに捨てられた貝殻はどうなるんだろう」
私がそう呟くと、葵は読んでいた本から目を離し、不思議そうな顔をしていた。
「どうなるって、どうもならないんじゃないの。何? 急に」
「捨てられた貝は空っぽになって取り残されるんだよね。……なんか寂しい」
私はヤドカリに捨てられた貝殻と自分を重ね合わせていた。そんな私を見て葵は憎たらしい笑みを浮かべている。
「遥、どうした? 随分とポエマーだね」
「私はいつでもポエマーなんだよ。知らなかった? ああ、あなたは簡単に私を捨てて出ていくのね。あなたに捨てられた私は一人ぼっちで砂に埋もれていくの。こんな感じ?」
自分に対する皮肉もこめてふざけた調子でそう言うと、葵は声を出して笑っている。
「なんか、どうかしてたわ。さっきのは聞かなかったことにしておいて」
「まあ、たまにはいいんじゃないすか。ヤドカリの出てった後の貝殻ねえ。そのままのこともあるだろうし、もしその貝殻が魅力的なら、他のヤドカリが住み着くこともあるんじゃない」
そう言うと葵はまた本を読み始めた。そんなこともあるかもしれないと思いながら、それでもこのヤドカリが少しでも長くここに居続けてくれることを願わずにはいられなかった。そのために少しでも窮屈さを感じさせないように、彼女に自分の気持ちを押し付けることはしないでいようと心に誓った。
誓ったはずなのに。
それなのに私の葵への欲求は日に日に膨らんでいってしまった。葵があまりにも簡単に私の欲求に応えてくれてしまうから、それはどんどん加速していく。
もっと、ここに来て欲しい。
もっと、長く傍にいて欲しい。
もっと、私を見て欲しい。
もっと、もっと、もっと……。
それでも葵は嫌そうなそぶりも見せずここに居続けた。そうやって葵といる時間は本当に楽しくて。私を見る葵の目はたまに凄く優しくて。もしかしたら、私の気持ちを受け入れてくれるんじゃないか、葵も私のことを好きでいてくれるんじゃないかなんて幻想を抱かせて。わたしはもう、葵とただ体を合わせるだけでは物足りなくなっていた。
だから、私は彼女を試した。
そして私の甘い幻想はガラガラと音を立てて崩れ去り、代わりにヤドカリが出て行った後に残された空っぽな貝殻の姿が今後の自分の姿とぴたりと重なった。
ヤドカリにとって貝殻は単なる無機物に過ぎないんだ。
でも、私はヤドカリが出て行くのを待っているだけの貝殻とは違うから。
ヤドカリを見送るだけの貝殻とは違うから。
私は自ら葵との関係の終焉を選んだ。