ヤドカリ
1
不意に首に巻きついた彼女の腕を、私は引き剥がす事ができなかった。
テーブルに突っ伏し、何を話しかけても「んー」としか答えなくなった家主を引っ張り起こし、すぐ横にある寝床に追いやったまでは良かった。どさりとベッドに腰を下ろした彼女を布団の中になんとかしまいこもうとしたところを、しなやかで細長い腕に絡め取られてしまったのだ。
とっさのことで固まりかけた思考をなんとか巡らせる。
きっとこれは酔っ払いの悪ふざけ。
笑って引き剥がせばそれでおしまい。
そう頭では考えているのに、酔いつぶれた彼女の腕に大して力などこもってはいないのに、彼女の髪の香りと、触れ合った頬の柔らかさと、耳元をくすぐる吐息の熱さがそれをさせない。後ろにある点けっぱなしのテレビから発せられた笑い声はそんな私に向けられているように聞こえた。
「葵」
耳に触れる唇に自分の名を熱っぽく呼ばれ、私の体温も上昇していく。その呪文は私の理性を簡単に打ち壊し、堰き止められていた情欲は留めようも無く流れ出していく。
首に回された腕が緩み、体の距離が僅かに開くと彼女の瞳が眼前に迫る。アルコールに毒されたそれは焦点を失い、私を見ているようで見ていない。私の名を呼びながらも他の人の影を追いかけているようだ。
酔った勢い?
寂しさの穴を埋めるため?
それでも構わない。
近づいてくる唇を受け止め、侵入してきた舌を絡め取る。彼女の呼気から漂うアルコール臭と唾液の甘さのせいで私まで酔いが回ったように頭の中が霞がかっていく。
彼女の舌はこんなにも熱く、柔らかいのか。
中腰のまま、荒い呼吸と共に夢中になって舌を行き来させていれば、ゆっくりと体を横たえ始める彼女が私を逃がすまいと頭の後ろに回した手に力を込めるのを感じる。私はその求めに応じて追い掛けて行く。バランスを保とうと手と膝を突いたベッドがギシリと軋んだ。
彼女の体の両脇に肘をつき、完全に組み敷く形になった私の口内を彼女の舌が這い回る。むさぼるような彼女にされるがままにしていたが、彼女の舌が帰って行くのを感じ、唇を離し体を起こしていく。後頭部にあった手がするりと移動し、名残惜しそうに頬に添えられると私は動きを止めた。
名残惜しいのは私か。
蛍光灯の青白い光の下でシーツに長い髪を散らばせた彼女は、まどろんだ瞳で私を縫いとめた後、唾液で濡れた唇を動かした。
「ねえ、葵」
テレビから一際大きな笑い声が響いた。