チャネリング@ラヴァーズ
陽はすっかり西の空へと傾いていた。窓辺にひとりの男子高校生が立っている。桜はすでに散り始め、舞い落ちる花びらは夕陽を受けて緋色に染まっていた。入学式が終わったばかりの一学年教室が並ぶ廊下は、人気もなく静寂に包まれている。男子生徒はもう何時間もその窓辺に佇んでいた。
廊下の一番端の教室から、また別の男子生徒が出てきた。その生徒の制服の胸ポケットには〝佐井野〟という彼の名字が刺繍されていた。佐井野という名字の男子生徒はそのまま廊下を歩き続け、やがてあの窓辺に立つ男子生徒とすれ違った。
佐井野はその時、頭から全身血みどろの男が、その男子生徒の背中に覆いかぶさっているのを見た。佐井野はちらりと血みどろの男を見たが、気にも留めずに通り過ぎた。通り過ぎる瞬間、血みどろの男は佐井野に、
「……ほっといてくれ。」
と囁いた。だが佐井野は何も聞かなかったかのように、血みどろの男をおぶったままの男子生徒のそばを離れていった。勢いの強い春風が、花びらを廊下にまで運び込んでいた。
春風の勢いはしばらくその後もまだ強かった。その高校では塀沿いにも桜の木が植えられている。風は落ちたばかりの桜の花びらを、校庭にクルクルと転がしていた。薄紅色の桜に染まった朝の校舎は、まるで別世界であった。
花びらを転がしている風が、この高校に通うひとりの女子高生の長い黒髪や制服のスカートもひるがえした。白石貴子は、腰まで届きそうな自分の髪が、朝からいっこうにまとまっていないことに気がついていた。
「まるで井戸から出てきたサダコだな。」
独り言をぽつりと呟いてから、ふふん、と小さく笑った。貴子は髪を掻きあげながら校舎を見あげた。
誰もが新しい生活に胸を膨らませる春の日。この高校の新入生、白石貴子の高校生活は、後に日常茶飯事となる除霊や交霊、憑依といったオカルトな言葉とはまだ無縁に、穏やかに始まったばかりであった。
「いたこ!」
誰かに自分の名を呼ばれて、貴子は後ろを振り向いた。いたこ、というのは彼女のあだ名である。
声の主はクラスメイトの北沢まみだった。まみは笑顔のまま貴子に追いついた。
「ねえ、いたこ、私気がつかなかったけど、入学式に間違えて男子トイレに入って大騒ぎを起こしてたってほんと?私は昨日、聞いたんだけど!」
「う!朝から他人が忘れたいと思っていることをわざわざ言わないでよ!」
貴子はぎょっとした顔でまみを見た。
「やっぱり‽高校生になってもいたこは相変わらず〝痛い子〟なんだから。」
同じ中学から進学した唯一のクラスメイトであるまみが、からかうように肘を突き出してつついた。一方の貴子はといえば、肩を落としてすっかり落ち込んでしまっていた。
いたこ、という呼び名の由来はここからきている。つまり痛い子だから、いたこ、といつの間にか名づけられたのだった。しかもそれは小学校高学年の頃からのことであった。本名の〝貴子〟に、響きもよく似ていた。
「見て、いたこ!特進クラスの佐井野君だ!」
教室のある2階まで階段を登り廊下を歩き始めたところで、まみが窓から見える校庭をひとりで歩く、ある男子生徒を指差して言った。
その男子生徒の名前は、佐井野瓦。入学してまだ日が浅いにもかかわらず、貴子もすでに名前だけは耳にしていた。
「へー、噂には聞いていたけど、実際の姿は初めて見た。」
貴子も興味津々という表情で窓枠に身を乗り出し、その男子生徒を見た。男子に対して特に興味があったわけではないが、好奇心の旺盛さでは誰にも負けない自信があった。
〝特進クラス〟とは、貴子の学校にある『特別進学クラス』の略である。学年でもトップクラスの成績の生徒だけを集め、東大入学を目指すエリートクラスであるらしい。
なかでも彼、佐井野瓦は、入学試験の成績が断トツのトップだったという噂のある有名な秀才。しかもルックスもなかなか整った顔立ちをしているという評判だった。同時に無口で誰ともめったに口を利かない、クールでミステリアスな性格らしい。
「佐井野君って、イケメンなのに無口なんだって。かっこいいね!」
「へえ~、あんな顔してむっつりなんだ。あんな奴が好みなの?それに男のくせに肌の色が白すぎない?色白なんてキモいよ。」
貴子は〝男は顔で選ばない主義〟だった。小学生以来三枚目に徹してきたせいか男子に対する評価は何故かいつも手厳しい。
「なんでも彼、東北の方の出身らしいよ。学年一の秀才なんて、私には理想高すぎかな?貴子はどんな感じの人が好きなの?」
まみが上目遣いで貴子を見たまま、ぺロッと舌を出した。
貴子は素直に可愛いな、と思った。柔らかな髪を巻き髪にしたまみは、中学の頃からモデル系美人だった。それに比べて貴子の顔は一般的である。女らしさといえば、腰あたりまで長く伸ばした黒髪が豊かで印象的なことぐらいである。それもただ単純に、カットしに行くのが面倒くさいだけ、という理由だった。
まみが先に歩き始めた後も、貴子は窓枠に座ったまま学年の秀才、佐井野瓦を観ていた。佐井野は急に立ち止まり、貴子が座っている場所からは少し離れた2階のある窓を見上げた。その目線を追って、貴子も廊下の先を見た。ひとりの男子生徒が窓辺に立っていた。友達かな、と貴子は思った。
ふいにまた、風が吹いた。地面に散りばめられていた桜の花びらも、一緒に吹雪いた。その時、佐井野が視線を移して貴子を見た。男らしくないほど繊細な前髪が花びらとともに風に揺れた。そして、キリリと引かれた眉の下の二重の目が見えた。目尻はわずかに切れ上がっている。その眼が、貴子を見た。ふたりの眼が一瞬だけぴたりと合った。
貴子は思わず、どきっとした。だが佐井野瓦はすぐに貴子から目を離すと、何事もなかったかのように前を向いて眼下から去って行った。
貴子はしばらく音もなく舞い落ちる桜の花びらや、桜色に染まった校庭を見ていた。桜に酔ったな、と柄にもないことを思った。立ち上がると、貴子は窓辺から自分の教室へと去っていった。
数日後、貴子は廊下で偶然あの佐井野と出会った。佐井野は貴子の前を歩いていた。
―佐井野瓦だ。
佐井野はひと目でそれと判るような、不思議な雰囲気を持っていた。貴子は早足で歩み寄ると学年一の秀才の後ろ姿をそれとなく観察した。遠くから見たときは自分よりも背が高いと感じたが、至近距離で観察すると自分とそれほど背丈は変わらない。貴子は長身である。
「いたこ!」
クラスメイトの女子が、ふいに後ろから貴子を大声で呼んだ。するとその声に反応するかのように、前を歩いていた佐井野が急に立ち止まり貴子を振り返った。佐井野は目を見開いて貴子を見ている。貴子もまたぎょっとして立ち止まった。
「君はイタコなのか?」
「え?」
佐井野が唐突に問いかけてきた。貴子は尾行していた相手が突然話しかけてきたことに戸惑い、その顔を思わず見返した。
「はあ。まあ、いたこと言えば、いたこですけど。」
貴子がそう答えると、佐井野は貴子の両肩を掴み、顔を近づけて話しかけてきた。
「君の名前とクラスは‽」
「は?わ、わたしですか‽」
「そうだ!君の名は?」
廊下の一番端の教室から、また別の男子生徒が出てきた。その生徒の制服の胸ポケットには〝佐井野〟という彼の名字が刺繍されていた。佐井野という名字の男子生徒はそのまま廊下を歩き続け、やがてあの窓辺に立つ男子生徒とすれ違った。
佐井野はその時、頭から全身血みどろの男が、その男子生徒の背中に覆いかぶさっているのを見た。佐井野はちらりと血みどろの男を見たが、気にも留めずに通り過ぎた。通り過ぎる瞬間、血みどろの男は佐井野に、
「……ほっといてくれ。」
と囁いた。だが佐井野は何も聞かなかったかのように、血みどろの男をおぶったままの男子生徒のそばを離れていった。勢いの強い春風が、花びらを廊下にまで運び込んでいた。
春風の勢いはしばらくその後もまだ強かった。その高校では塀沿いにも桜の木が植えられている。風は落ちたばかりの桜の花びらを、校庭にクルクルと転がしていた。薄紅色の桜に染まった朝の校舎は、まるで別世界であった。
花びらを転がしている風が、この高校に通うひとりの女子高生の長い黒髪や制服のスカートもひるがえした。白石貴子は、腰まで届きそうな自分の髪が、朝からいっこうにまとまっていないことに気がついていた。
「まるで井戸から出てきたサダコだな。」
独り言をぽつりと呟いてから、ふふん、と小さく笑った。貴子は髪を掻きあげながら校舎を見あげた。
誰もが新しい生活に胸を膨らませる春の日。この高校の新入生、白石貴子の高校生活は、後に日常茶飯事となる除霊や交霊、憑依といったオカルトな言葉とはまだ無縁に、穏やかに始まったばかりであった。
「いたこ!」
誰かに自分の名を呼ばれて、貴子は後ろを振り向いた。いたこ、というのは彼女のあだ名である。
声の主はクラスメイトの北沢まみだった。まみは笑顔のまま貴子に追いついた。
「ねえ、いたこ、私気がつかなかったけど、入学式に間違えて男子トイレに入って大騒ぎを起こしてたってほんと?私は昨日、聞いたんだけど!」
「う!朝から他人が忘れたいと思っていることをわざわざ言わないでよ!」
貴子はぎょっとした顔でまみを見た。
「やっぱり‽高校生になってもいたこは相変わらず〝痛い子〟なんだから。」
同じ中学から進学した唯一のクラスメイトであるまみが、からかうように肘を突き出してつついた。一方の貴子はといえば、肩を落としてすっかり落ち込んでしまっていた。
いたこ、という呼び名の由来はここからきている。つまり痛い子だから、いたこ、といつの間にか名づけられたのだった。しかもそれは小学校高学年の頃からのことであった。本名の〝貴子〟に、響きもよく似ていた。
「見て、いたこ!特進クラスの佐井野君だ!」
教室のある2階まで階段を登り廊下を歩き始めたところで、まみが窓から見える校庭をひとりで歩く、ある男子生徒を指差して言った。
その男子生徒の名前は、佐井野瓦。入学してまだ日が浅いにもかかわらず、貴子もすでに名前だけは耳にしていた。
「へー、噂には聞いていたけど、実際の姿は初めて見た。」
貴子も興味津々という表情で窓枠に身を乗り出し、その男子生徒を見た。男子に対して特に興味があったわけではないが、好奇心の旺盛さでは誰にも負けない自信があった。
〝特進クラス〟とは、貴子の学校にある『特別進学クラス』の略である。学年でもトップクラスの成績の生徒だけを集め、東大入学を目指すエリートクラスであるらしい。
なかでも彼、佐井野瓦は、入学試験の成績が断トツのトップだったという噂のある有名な秀才。しかもルックスもなかなか整った顔立ちをしているという評判だった。同時に無口で誰ともめったに口を利かない、クールでミステリアスな性格らしい。
「佐井野君って、イケメンなのに無口なんだって。かっこいいね!」
「へえ~、あんな顔してむっつりなんだ。あんな奴が好みなの?それに男のくせに肌の色が白すぎない?色白なんてキモいよ。」
貴子は〝男は顔で選ばない主義〟だった。小学生以来三枚目に徹してきたせいか男子に対する評価は何故かいつも手厳しい。
「なんでも彼、東北の方の出身らしいよ。学年一の秀才なんて、私には理想高すぎかな?貴子はどんな感じの人が好きなの?」
まみが上目遣いで貴子を見たまま、ぺロッと舌を出した。
貴子は素直に可愛いな、と思った。柔らかな髪を巻き髪にしたまみは、中学の頃からモデル系美人だった。それに比べて貴子の顔は一般的である。女らしさといえば、腰あたりまで長く伸ばした黒髪が豊かで印象的なことぐらいである。それもただ単純に、カットしに行くのが面倒くさいだけ、という理由だった。
まみが先に歩き始めた後も、貴子は窓枠に座ったまま学年の秀才、佐井野瓦を観ていた。佐井野は急に立ち止まり、貴子が座っている場所からは少し離れた2階のある窓を見上げた。その目線を追って、貴子も廊下の先を見た。ひとりの男子生徒が窓辺に立っていた。友達かな、と貴子は思った。
ふいにまた、風が吹いた。地面に散りばめられていた桜の花びらも、一緒に吹雪いた。その時、佐井野が視線を移して貴子を見た。男らしくないほど繊細な前髪が花びらとともに風に揺れた。そして、キリリと引かれた眉の下の二重の目が見えた。目尻はわずかに切れ上がっている。その眼が、貴子を見た。ふたりの眼が一瞬だけぴたりと合った。
貴子は思わず、どきっとした。だが佐井野瓦はすぐに貴子から目を離すと、何事もなかったかのように前を向いて眼下から去って行った。
貴子はしばらく音もなく舞い落ちる桜の花びらや、桜色に染まった校庭を見ていた。桜に酔ったな、と柄にもないことを思った。立ち上がると、貴子は窓辺から自分の教室へと去っていった。
数日後、貴子は廊下で偶然あの佐井野と出会った。佐井野は貴子の前を歩いていた。
―佐井野瓦だ。
佐井野はひと目でそれと判るような、不思議な雰囲気を持っていた。貴子は早足で歩み寄ると学年一の秀才の後ろ姿をそれとなく観察した。遠くから見たときは自分よりも背が高いと感じたが、至近距離で観察すると自分とそれほど背丈は変わらない。貴子は長身である。
「いたこ!」
クラスメイトの女子が、ふいに後ろから貴子を大声で呼んだ。するとその声に反応するかのように、前を歩いていた佐井野が急に立ち止まり貴子を振り返った。佐井野は目を見開いて貴子を見ている。貴子もまたぎょっとして立ち止まった。
「君はイタコなのか?」
「え?」
佐井野が唐突に問いかけてきた。貴子は尾行していた相手が突然話しかけてきたことに戸惑い、その顔を思わず見返した。
「はあ。まあ、いたこと言えば、いたこですけど。」
貴子がそう答えると、佐井野は貴子の両肩を掴み、顔を近づけて話しかけてきた。
「君の名前とクラスは‽」
「は?わ、わたしですか‽」
「そうだ!君の名は?」
作品名:チャネリング@ラヴァーズ 作家名:楽恵