青い満月のフォーチュン
夜が、明けようとしている。
眼を閉じていても、軽くなった周りの空気や窓の外の気配で分かる。
結局、一睡もしていない。
如月梅乃は昨日、失恋した。幼稚園の頃から十四歳の今日まで、一途に片思いしてきた幼馴染の翼沙に告白し、ふられたのだ。
しかも、翼沙にはすでに彼女がいた。その相手が、なんと同じく幼馴染で親友の優奈だった。
信じられなかった。二人は付き合っている事を梅乃に黙っていたのだ。
言葉に出来ない怒りと悲しみが、痛みとなって全身を鋭く駆け巡る。
夜など明けなくていい。朝になれば、いつものように教室で二人と顔を合わせなければならない。そう思うと、苦しさで胸が張り裂けそうだ。
それでも世界は、また新しい朝を迎えようとしている。
重い瞼を開け、溜息をつくと、憂鬱な身体をゆっくりと起こした。
箪笥から白い小袖と緋袴を出す。如月家は代々、観月神社という名の小さな神社を守っている。梅乃は観月神社の巫女だ。
禊のシャワーを浴び、長い髪を後ろで束ねる。巫女装束に着替えると、家と同じ敷地内にある神社の境内に向かった。
神社の社は小さいが、参道や社殿の周りには楠や欅の森がこんもりと茂っている。朝の掃き掃除は、幼い頃より梅乃の仕事だ。失恋したからといって、巫女としての務めを休むわけにいかない。
群青色の未明の空に、ほのかな白い光が滲んでいく。今にも消え入りそうな細い月と明けの明星が、並んで輝いている。
やがて、夜が明けた。鎮守の森に充満する濃い朝霧。
愛用している竹箒を握り締め、境内の掃き掃除を始めた。陽の光を浴び、五感のすべてが研ぎ澄まされていく。
その時、雑木林のなかに一匹の大きな黒猫が現れた。見たことのない黒猫だ。木立の間から、大きな金色の眼でこちらをじっと見ている。にゃあ、と小さく鳴くと、林の中を歩き始めた。
梅乃は思わず、黒猫の後をつけ始めた。
だが林の奥まで進んでいくと、姿が消えた。慌てて辺りを探したが、すでに黒猫の気配は無かった。
けれどそこには黒いトンガリ帽がひとつ、落ちていた。木の葉を払って拾い上げる。
(まるで魔女の帽子みたい)
上下をひっくり返して、そのトンガリ帽を詳細に調べた。持ち主の名前は無い。
手に持っている竹箒に気がつく。このトンガリ帽がもし魔女の帽子なら、空を飛べるかも!
一晩中寝ていなかった梅乃は、少しハイになっていた。
帽子を被り、さっそく竹箒に跨る。目を瞑り(飛べ!)と心の中で叫んだ。
その瞬間、身体が奇妙なほど軽くなった。そして足元が、ふわり、と宙に浮いた。
(え?)地面を見た。僅かだが、確かに十センチほど、足袋を履いた両足が浮いている。
目をこすって、もう一度確かめる。間違いない。宙に浮いている!
そんな馬鹿な……。しばらく呆然とする。だがすぐに意識を取り戻し、慌てて着地した。
睡眠不足の幻覚よ!
頭を左右に強く振った。森はいつの間にか鳥達のさえずりで騒々しい。車やバイクが、道をひっきりなしに行き交う。
今、何時だろう?
家に戻り制服に着替えると、急いで登校準備をした。
校門の前まで来て、足が止まる。翼沙が告白を断った時の困惑した表情が思い出された。優奈は、すでに知っているだろう。悲しみがまた、蘇る。
(しっかりしろ、梅乃!お前らしくないぞ!)
両手で頬を叩き、自分で自分を励ます。
勇ましく教室に入ると、黒板のすぐ前に座る翼沙と目が合った。
顔を上げたまま、冷たく視線を逸らす。精一杯の虚勢だった。
その後は、眠気に襲われながらも授業をどうにかやり過ごし、一日を終えた。
教室を出て行こうとした時、
「梅乃、話があるんだけど」
優奈が、背後から声をかけて来た。足が止まる。これまで何度も恋の相談をしてきたのに、何故今まで黙っていたのだろう?
気持ちを奮い立たせ、必死で笑顔を作る。
「ごめん。今は何も話したくないんだ」
「……梅乃」
優奈は寂しそうな顔をした。
(辛いのはこっちだ!)背を向け、振り返らずに走り去る。
目頭に悔しさと悲しみがいっぱい詰まっていた。でも今は、絶対に泣きたくない。負け犬にだって、プライドがある。
家に帰ると、ベッドに倒れこみ、死んだように眠った。とにかく眠りたかった。昨日の出来事も、翼沙と優奈の事も、全て忘れたかった。
目が覚めると、すでに夕方だった。森のカラスが騒いでいる。
神主である父は普段サラリーマンをしていた。植木には梅乃が朝夕と水をあげなければならない。巫女装束に着替え、境内へ向かう。
部屋を出る時、今朝の出来事を思い出した。隠しておいた黒いトンガリ帽(あの魔女の帽子)を持って外へ出た。
観月神社は月の神様、月読命を祭っている。ここは町の高台にあり、月はもちろんのこと、夕陽もまたそれは美しく見える。
掃き掃除が一通り終わると、参拝者がいないか境内を見回した。普段から人気の少ない神社である。
帽子を被り、竹箒の柄に跨った。冗談半分だったが、それでも(飛べ!)と叫び地面を蹴った。
朝と同じように、身体が軽くなる。足は地に着いていない。間違いない。
「やっぱり本物の魔女の帽子だわ!」
「そうだ、魔女の帽子だ」
突然の声に驚き、辺りを見回す。だが自分の影以外に他人の姿はない。
「私はここだ、月の魔女よ」
声は空から聞こえた。
鳥居の上に、夕陽を背にして見知らぬ少年が立っていた。銀縁の片眼鏡をかけ、黒いシルクハットを被り、燕尾服を着ている。手袋をしてステッキを持ち、まるで英国紳士のようないでたちだ。
「あ、あなたは誰?」
「私は悪魔の公爵、オリアス。占星術を司る悪魔だ」
片眼鏡を指でかけなおし、涼やかに名乗った。歳は十六か十七くらいだろう。
「悪魔の公爵?」
「そうだ。我が主、魔界の王ルシフェル様の命により、新しい月の魔女を天体配置図で探していたのだ。お前は金星の導きと、出生日の空にあった月の運勢によって、月の魔女に選ばれた」
「月の魔女?」
「その通り」
仰々しく話し終わると、ステッキをくるりと回した。すると背中に、蝙蝠のような形をした大きな黒い翼がバサリと生えた。ぎょっとする。羽ばたきして地上に降りると、こちらに向かって歩いて来た。
「な、何言ってるの?私はこの観月神社の巫女よ!魔女になんてならないわ!」
後ずさりして、大声で叫ぶ。警戒して手元の竹箒を相手に向けた。
「巫女であろうが、何であろうが、悪魔には関係ない。ともかく、お前は私の占星術によって月の魔女に選ばれたのだ」
いきなり、月の魔女に選ばれたとか言われても……。第一、魔女になる巫女なんて、聞いたことがない!
「月の魔女となれば、月の魔法によって願いを何でも叶えることができるぞ」
(願い?)
その瞬間、心に浮かんだのは、恋に破れた悲しみと真っ黒な嫉妬の感情だった。だが、巫女らしくない考えを慌てて否定する。自分は清く正しい観月神社の巫女なのだ。
「私に願いなんてないわ!」
「そうかな?願いのない人間なんているはずがない。人間は願望や欲望があるからこそ、生きるのだ」
つい、手に持っていた竹箒に視線を落とす。好奇心だけは押さえようがない。
「……空を飛ぶこともできるの?」
「当然だ!天空飛行は魔女の基本だぞ」
「それなら、この箒で空を飛びたい!」
眼を閉じていても、軽くなった周りの空気や窓の外の気配で分かる。
結局、一睡もしていない。
如月梅乃は昨日、失恋した。幼稚園の頃から十四歳の今日まで、一途に片思いしてきた幼馴染の翼沙に告白し、ふられたのだ。
しかも、翼沙にはすでに彼女がいた。その相手が、なんと同じく幼馴染で親友の優奈だった。
信じられなかった。二人は付き合っている事を梅乃に黙っていたのだ。
言葉に出来ない怒りと悲しみが、痛みとなって全身を鋭く駆け巡る。
夜など明けなくていい。朝になれば、いつものように教室で二人と顔を合わせなければならない。そう思うと、苦しさで胸が張り裂けそうだ。
それでも世界は、また新しい朝を迎えようとしている。
重い瞼を開け、溜息をつくと、憂鬱な身体をゆっくりと起こした。
箪笥から白い小袖と緋袴を出す。如月家は代々、観月神社という名の小さな神社を守っている。梅乃は観月神社の巫女だ。
禊のシャワーを浴び、長い髪を後ろで束ねる。巫女装束に着替えると、家と同じ敷地内にある神社の境内に向かった。
神社の社は小さいが、参道や社殿の周りには楠や欅の森がこんもりと茂っている。朝の掃き掃除は、幼い頃より梅乃の仕事だ。失恋したからといって、巫女としての務めを休むわけにいかない。
群青色の未明の空に、ほのかな白い光が滲んでいく。今にも消え入りそうな細い月と明けの明星が、並んで輝いている。
やがて、夜が明けた。鎮守の森に充満する濃い朝霧。
愛用している竹箒を握り締め、境内の掃き掃除を始めた。陽の光を浴び、五感のすべてが研ぎ澄まされていく。
その時、雑木林のなかに一匹の大きな黒猫が現れた。見たことのない黒猫だ。木立の間から、大きな金色の眼でこちらをじっと見ている。にゃあ、と小さく鳴くと、林の中を歩き始めた。
梅乃は思わず、黒猫の後をつけ始めた。
だが林の奥まで進んでいくと、姿が消えた。慌てて辺りを探したが、すでに黒猫の気配は無かった。
けれどそこには黒いトンガリ帽がひとつ、落ちていた。木の葉を払って拾い上げる。
(まるで魔女の帽子みたい)
上下をひっくり返して、そのトンガリ帽を詳細に調べた。持ち主の名前は無い。
手に持っている竹箒に気がつく。このトンガリ帽がもし魔女の帽子なら、空を飛べるかも!
一晩中寝ていなかった梅乃は、少しハイになっていた。
帽子を被り、さっそく竹箒に跨る。目を瞑り(飛べ!)と心の中で叫んだ。
その瞬間、身体が奇妙なほど軽くなった。そして足元が、ふわり、と宙に浮いた。
(え?)地面を見た。僅かだが、確かに十センチほど、足袋を履いた両足が浮いている。
目をこすって、もう一度確かめる。間違いない。宙に浮いている!
そんな馬鹿な……。しばらく呆然とする。だがすぐに意識を取り戻し、慌てて着地した。
睡眠不足の幻覚よ!
頭を左右に強く振った。森はいつの間にか鳥達のさえずりで騒々しい。車やバイクが、道をひっきりなしに行き交う。
今、何時だろう?
家に戻り制服に着替えると、急いで登校準備をした。
校門の前まで来て、足が止まる。翼沙が告白を断った時の困惑した表情が思い出された。優奈は、すでに知っているだろう。悲しみがまた、蘇る。
(しっかりしろ、梅乃!お前らしくないぞ!)
両手で頬を叩き、自分で自分を励ます。
勇ましく教室に入ると、黒板のすぐ前に座る翼沙と目が合った。
顔を上げたまま、冷たく視線を逸らす。精一杯の虚勢だった。
その後は、眠気に襲われながらも授業をどうにかやり過ごし、一日を終えた。
教室を出て行こうとした時、
「梅乃、話があるんだけど」
優奈が、背後から声をかけて来た。足が止まる。これまで何度も恋の相談をしてきたのに、何故今まで黙っていたのだろう?
気持ちを奮い立たせ、必死で笑顔を作る。
「ごめん。今は何も話したくないんだ」
「……梅乃」
優奈は寂しそうな顔をした。
(辛いのはこっちだ!)背を向け、振り返らずに走り去る。
目頭に悔しさと悲しみがいっぱい詰まっていた。でも今は、絶対に泣きたくない。負け犬にだって、プライドがある。
家に帰ると、ベッドに倒れこみ、死んだように眠った。とにかく眠りたかった。昨日の出来事も、翼沙と優奈の事も、全て忘れたかった。
目が覚めると、すでに夕方だった。森のカラスが騒いでいる。
神主である父は普段サラリーマンをしていた。植木には梅乃が朝夕と水をあげなければならない。巫女装束に着替え、境内へ向かう。
部屋を出る時、今朝の出来事を思い出した。隠しておいた黒いトンガリ帽(あの魔女の帽子)を持って外へ出た。
観月神社は月の神様、月読命を祭っている。ここは町の高台にあり、月はもちろんのこと、夕陽もまたそれは美しく見える。
掃き掃除が一通り終わると、参拝者がいないか境内を見回した。普段から人気の少ない神社である。
帽子を被り、竹箒の柄に跨った。冗談半分だったが、それでも(飛べ!)と叫び地面を蹴った。
朝と同じように、身体が軽くなる。足は地に着いていない。間違いない。
「やっぱり本物の魔女の帽子だわ!」
「そうだ、魔女の帽子だ」
突然の声に驚き、辺りを見回す。だが自分の影以外に他人の姿はない。
「私はここだ、月の魔女よ」
声は空から聞こえた。
鳥居の上に、夕陽を背にして見知らぬ少年が立っていた。銀縁の片眼鏡をかけ、黒いシルクハットを被り、燕尾服を着ている。手袋をしてステッキを持ち、まるで英国紳士のようないでたちだ。
「あ、あなたは誰?」
「私は悪魔の公爵、オリアス。占星術を司る悪魔だ」
片眼鏡を指でかけなおし、涼やかに名乗った。歳は十六か十七くらいだろう。
「悪魔の公爵?」
「そうだ。我が主、魔界の王ルシフェル様の命により、新しい月の魔女を天体配置図で探していたのだ。お前は金星の導きと、出生日の空にあった月の運勢によって、月の魔女に選ばれた」
「月の魔女?」
「その通り」
仰々しく話し終わると、ステッキをくるりと回した。すると背中に、蝙蝠のような形をした大きな黒い翼がバサリと生えた。ぎょっとする。羽ばたきして地上に降りると、こちらに向かって歩いて来た。
「な、何言ってるの?私はこの観月神社の巫女よ!魔女になんてならないわ!」
後ずさりして、大声で叫ぶ。警戒して手元の竹箒を相手に向けた。
「巫女であろうが、何であろうが、悪魔には関係ない。ともかく、お前は私の占星術によって月の魔女に選ばれたのだ」
いきなり、月の魔女に選ばれたとか言われても……。第一、魔女になる巫女なんて、聞いたことがない!
「月の魔女となれば、月の魔法によって願いを何でも叶えることができるぞ」
(願い?)
その瞬間、心に浮かんだのは、恋に破れた悲しみと真っ黒な嫉妬の感情だった。だが、巫女らしくない考えを慌てて否定する。自分は清く正しい観月神社の巫女なのだ。
「私に願いなんてないわ!」
「そうかな?願いのない人間なんているはずがない。人間は願望や欲望があるからこそ、生きるのだ」
つい、手に持っていた竹箒に視線を落とす。好奇心だけは押さえようがない。
「……空を飛ぶこともできるの?」
「当然だ!天空飛行は魔女の基本だぞ」
「それなら、この箒で空を飛びたい!」
作品名:青い満月のフォーチュン 作家名:楽恵