シャングリラの夢:前
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「―― 。これをお願いします」
名を呼ばれる。細いボーイソプラノ、あるいはコントラルトの声音で。振り向くと、アラバスタがそこにいた。半分も埋まっていない洗濯かごを抱えた、麗しき人形の少年。
相変わらず、そこには人形特有の、曖昧な無表情しかない。だが、三日この教会で過ごした結果、彼の性格というものがだいぶつかめてきていた。
少女は西から吹く風に、癖のように頭巾を抑えて、頷く。
「ええ、分かったわ。でも、今ちょっと手が離せないの。そこに置いておいて」
「ああ、はい。ですが、水やりくらい僕がしますが?」
少女の手には如雨露。そこからはきらきらと日光に反射する数筋の水が吐きだされ、花壇の花々に潤いを与えている。濡れた花弁が露を乗せ、その光景は果てしなく和やかだ。確かに誰でもできる仕事では、あるが。
「それなら、洗濯物だってあなたでもできるわ。あなたの方が背も高いし」
そう。それは洗濯でも同様。むしろ背がある分、彼の方に回ってくるべき仕事だ。
が、彼は相も変わらず、整いすぎている無表情で、唇を動かさずに言う。
「確かにそうですが。けれど僕は、背が届かないながらも、必死に洗濯ひもへと手を伸ばすあなたが見たいのです。実に小動物的で、可愛らしいですから」
「……ああ、そう」
……そう、彼、アラバスタはこういう性格だった。実に見た目にそぐわないことではあるが。天使のような顔立ちで、平然と冗談だか本音だか皮肉だか分からないことを言う。表情が変わらないゆえ、なおさらにその境が判別できない。今のこれに悪意じみたものはなかったから、おそらくは前者ふたつのうちどちらかであろうが。
「……じゃあやっぱり後でするから、そのあたりに置いてて。あと、干してる最中は絶対に見ないで」
「いえ、それではあなたに洗濯物を頼む意味が、」
「見ないで」
「…………はい」
色の薄い瞳に鋭く睨まれ、彼はすごすごと引き下がる。少女のプライドにかけて、断じてそんなものを彼の眼にさらすわけにはいかない。というか、昨日のあれは見られていたのか。やっと忘れられたと思えばこれだ。少女はため息をつき、水やりを手早く終わらせる。
そして、彼が運んできた洗濯かごに手をかけて、
「ああ、本当だ、いたいた。すみません、ちょっとお話があるのですが」
今度は裏口から神父が顔を出した。額を壁にぶつけそうになりながらも、長身を折って中庭へと出てくる。――つい先ほど中に入ったはずの、アラバスタと共に。
何をしにきたのか、と密かに睨む少女へ、彼は弁解するように手と首を振る。神父はその動作に首を傾げながらも、少女に言葉をかけてきた。
「少し、アラバスタと一緒に外に回っていただけませんか? 洗濯物なら私がしますから。行ってもらいたいところがあるのです」
「……? はい」
洗濯かごから手を離し、神父のもとへと歩み寄る。アラバスタがその隣に並び、共に彼を見上げる形となった。……少女としては、少々首が痛い。
「ウェスト通りの第三区に、病気のお子さんがいらっしゃるのです。その家に行って、聖典を読んできてあげてくださいませんか? いつもはアラバスタだけで行くのですが、この街のことをよく知るためにも、ちょうどよいかと思いまして……」
温和に笑む神父。隣を見ると、アラバスタは脇に聖典を持ち、同じく少女を見やっている。どうするのか、と問うているようだ。
……どうもこうもない。神父からの頼みならば、否やとは言えまい。断ったところでこの神父は怒りはしないだろうが、落胆はしよう。少女はこの神父に好感を持っているし、そんなことはしたくない。
加えて。個人的に、この街を歩いてみたいとは、来たその日から思っていた。
「分かりました、行きます。聖典を取ってきますから、待っててください」
そう言って、神父が洗濯かごの方へ行くのとすれ違うようにして、裏口から中に入る。廊下を走らない程度に早足で進み、部屋へ入り、ザックから表紙のすすけた聖典を取り出した。子どものころから使っている、なじみ深い聖典。それを抱え、裏口へ向かう。
戻ると、アラバスタが裏口の脇で待っていた。少女が出てくると同時に金髪を揺らし、首を傾げる。
「では、行きましょうか」
にこりとも笑わない。けれどもそこには、確かに親しみがこもっていた。まるで舞踏会に貴婦人を誘うように、白い手袋に包まれた手を差し伸べる。ためらいはしたが、少女は、たどたどしくその手を取った。知らない街で迷えば、笑いごとでは済まないからだ――それ以外の意図などない。
「行ってらっしゃいませ。終わったら、少々街を回っても結構ですよ。夕食までには戻ってきてくださいね」
洗濯ひもに苦戦するどころか、それより高い位置にある頭を振り向けて言う神父。にこやかに笑む姿からは、確実にこちらの様子を微笑ましく思っていることが、ありありと知れた。それに、反射的に手を振りほどこうとしてしまうものの、アラバスタの方はそうしない。
彼は柵に設えられた扉を開き、少女の手を引きながら、神父に答える。
「ええ、行ってきます。神父さま、任せてくださいよ」
作品名:シャングリラの夢:前 作家名:故蝶