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冥王星は氷のミステリー

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 無人の宇宙探査機ニュー・ホライズンズは、2007年に木星とのスイングバイによって加速を得て、以前より早いスピードで遠ざかっている。スイングバイとは、探査機が大きな天体の近くを通過することで、重力場を利用して軌道を曲げた上、加速あるいは減速することだ。
 冥王星に着くまで、探査機ニュー・ホライズンズは定期的なチェック以外、ほとんどの機器を休眠状態にしている。機器の消耗や故障のリスクを下げるためだ。
 冬眠するように眠る宇宙探査機。いつか冥王星にたどり着き、再び目覚める日を夢見て。

 私は頬杖をついたまま、地学室の窓から外を眺めている。
 あれから2週間が経った。だが謎は、まだ解けない。
 目の前の黒板に、前の授業の内容が乱暴に消されている。
うっすらと残るチョークの後から、書かれていた文字を読むことができる。書かれていたのは、太陽系の惑星の名前と惑星記号。そして、一部だけ消し忘れている箇所がある。
 『 ♇ 』
 その記号を見て、眠気が覚めた。黒板に近づく。
 (……冥王星のマークだ)
 それは冥王星の惑星記号だった。
冥王星は2006年に惑星から準惑星に格下げされている。授業で取り上げられるなんて、珍しい。
 しばらく黒板を眺めていた。その文字に、何故だか見覚えがあった。
 再び机に戻り、例の冥王星の本、『冥王星―氷に覆われた謎の天体―』を取ると、本の最後のページを開いたまま、黒板に近づく。
 本に書かれていた文字と黒板に書かれている文字を見比べる。……どうして気がつかなかったのだろう。
 廊下に、誰かの足音が近づいてくる。振り返ると、入り口に皐月先輩が立っていた。
 「あれ。夏野さん、今日は起きてるのね」
 部屋に入ってくると、持っていた冥王星の本を見た。
 「あ、その本、夏野さんが借りてたんだ」
 「え?この本、もしかして先輩の本だったんですか?ごめんなさい、勝手に借りてました!」
 「ううん、別にいいよ。それにその本、内田先生の本なの」
 それは、さっき黒板を見て思いついた名前だった。
 「……やっぱり、そうだったんですね」
 黒板に書かれていたのは、内田先生が担当する地学の授業内容だった。
 「内田先生は大学生の時、宇宙物理学を専門に勉強していて、冥王星を卒業論文に選んだって聞いたの。だから冥王星のことを勉強すれば、先生ともっと話ができるかな、と思って。でも難しくてほとんど意味が分からなかった」
 そう言って、皐月先輩は肩をすくめて見せた。
 「卒業論文が冥王星……」
 私は手元にある本を眺めた。確かにこの本は専門書だ。
 「あ、そうだ。この前さ、準備室のロッカーの中から面白いもの見つけたんだ」
 皐月先輩は、隣の準備室から何かゴムのようなものを引っ張るように持って来た。それは宇宙人の着ぐるみだった。2週間前、私が校庭から見た地学室の宇宙人だ。
 「ちょっとだけ着てみたんだけど、けっこう重くて。やっぱ男子じゃないと自由に動けないみたい」
 宇宙人の着ぐるみを先輩から受取ると、床に広げてみた。灰色の肌にオレンジ色の服。あの日の宇宙人の正体は、皐月先輩だったのだ。
 「よくできてるよねー。内田先生に聞いたら、昔、文化祭のために地学部で作ったものらしいんだけど」
 「え?どうして内田先生が、この宇宙人を知ってるんですか?」
 「夏野さん、知らないの?先生、この高校の出身で、地学部のOBなんだよ。私も最近知ったんだけど」
 「この地学部のOB……」
 先生が高校生だった頃の地学部……。
 『宇宙人との会見』の写真を思い出した。あの宇宙人が、この着ぐるみなら、その中に入っていた人は……。
 私は宇宙人の着ぐるみを持ち上げると、そっと抱きしめた。

 太陽系外縁天体のひとつ、冥王星。
 地上約600km上空の軌道上を周回するハッブル宇宙望遠鏡でさえ観測することが難しいほど、地球から離れた小さな星。
 冥王星はかつて太陽系の第九惑星とされていた。しかし、同じような大きさの太陽系外縁天体がいくつも発見されたことで、冥王星は 2006年に惑星から準惑星に格下げされた。
 かつては地球から最も遠い惑星として、誰もが知っていた星。それなのに、やがて月日が経てば、数多くある太陽系外縁天体のひとつと認識され、その名前さえ人々の記憶から忘れ去られてしまうのだろうか。
 私は『宇宙人との会見』の写真を眺めた。〝宇宙人〟と笑顔で握手している環兄ちゃん。
 土屋環の『宇宙人との会見』の写真に写っている宇宙人は、地学準備室に置いてあったあの着ぐるみだった。そして、この着ぐるみを着ていたのが……。
 (残されたジョバンニ)
 私は『宇宙人との会見』の写真を、『冥王星―氷に覆われた謎の天体―』のページの間に挟んで、地学室の教壇のうえに置いた。本は、次の日には無くなっていた。

 私は今日も、放課後を地学室で時間を過ごす。
 長めのチャイムが鳴る。下校時間だ。
 「夏野さん」
 内田先生が、教室に入ってきた。私は勉強していた手を止めて、先生を見た。手に鍵を持っている。
 「教室を閉めますよ」
 後片付けをして戸締りした後、先生と一緒に廊下に出た。
 「夏野さん、最近はあまり地学室で居眠りしてないね」
 驚いて、先生の顔を見た。放課後に地学室で居眠りばかりしていたことを、内田先生は知っていたのだ。恥ずかしさで真っ赤になった。
 「最近は寝ないで、勉強するようにしてるんです」
 そして、まだ誰にも言ってない秘密を先生に打ち明けた。
 「……宇宙科学を学べる大学に進学しようと思って」
 私の言葉を聞くと、先生はとても嬉しそうな顔をした。
 「そうなの。先生も大学で宇宙物理学を学んだんだ。・・・・・・いつか、宇宙飛行士の試験にも挑戦しようと思ってる」
 先生の意外な告白に、私はまた驚いた。
 それから、しばらく黙っていた内田先生は、
 「最近、不思議なことがあったんだ」
 と言って、私の顔をじっと見た。私は前を向いたまま、
 「・・・先生、知ってますか?実はこの地学室、幽霊が出るそうなんです」
 と、言った。私の言葉を聞いた先生は、目を丸くして、それから弾けるように笑い声をあげた。
 「そういえば、僕が地学部にいた時もそんな噂があったな。それなのに夏野さんは、いつもこの教室にいるね。幽霊が怖くないの?」
 「好きなんです、この地学室が」
 迷わず答えた。先生はその答えを聞いて、目を細めた。切れ長の目の、睫が意外に長いことに気がつく。
 「そうか。僕も高校時代は、よくこの地学室で過ごしたんだ。仲のいい後輩と二人でね。そいつはすごく変わってたけど、とても面白い奴だった」
 そう呟いて、内田先生は地学室の扉の鍵をゆっくりと回した。廊下に鍵がかかる音が響いた。
 「気をつけて、帰りなさい」
 内田先生はにっこりと笑った。先生の笑顔を、私は今日初めて見た気がした。私も引きずられるように、笑顔を返した。胸がとてもドキドキした。皐月先輩が言っていたように、内田先生は確かにかっこいい、と思った。
 校庭に出ると、もうすっかり陽が暮れようとしていた。空を仰ぐと、頭の上にキラキラ輝く物体が飛んで来た。
作品名:冥王星は氷のミステリー 作家名:楽恵