断片
祈り
恒例の習慣がある。彼女は一日に一度、黙祷を捧げる。時間にしては五分程度、彼女と共に黙祷を捧げるようになった。
「いつも何を考えているの?」
僕がまだ彼女の行動に疑問を思っていた時に、尋ねたことがある。
「世界平和」
簡潔な回答が返ってきた。
「世界平和?」
予想外な答えだ、と感じたものの、黙祷を捧げる人は何かしらの平和を願って
いるものか。そう納得していると、「嘘よ、嘘」と手を大きく広げて否定した。
「なにも考えていない。なにも考えていない時間を作っているの」
「どうして?」
「昔好きだった人がね、同じことをしていたの。かずくんって言うんだけど、普段は明るく元気でお喋りな人だった。ただある時、ピタッと喋らなくなり、黙祷しているの。私もあなたと同じく疑問に思い、聞いたの。『どうしたの?』って」
「その人も『世界平和』と答えたの?」
「うん。普段の彼と似つかない姿に、私は笑ったの。『なにそれ』って。そしたら、本気で怒ってきたの。『笑うな』ってね」
過去を懐かしむような表情を浮かべた。僕は、「それで?」と話を促した。
「私も彼に習って『世界平和』を願ってみたの。世界中の貧困の子どもたちが救われますように。世界中の戦争が無くなりますように。世界に愛が溢れますようにってね。でも同時に思ったのよ。嘘臭いって」
僕の手を握り締め、微笑む。
「私は世界の平和を願う前に、私の幸せを願いたいの。大きな幸せじゃなく、小さな幸せでいい。そのために私が出来ることは何かあるのか考えている」
「何も考えていないのに?」
指を絡めてくる。僕も彼女に応える。
「考えないよう意識するとね、不思議と考えてしまうの。今日の私は何をするんだっけ。昨日のテレビはつまらなかった。休みが欲しい。些細なことだけど、些細なことを受け止めていかないと幸せになれないのよ。あなたも私のことを笑う?」
「笑わないよ。ただ意外だなと思うだけ。きみの知らない部分を知れて、嬉しいくらいだよ」
「変わってるなあ。もう、何でも受け止めちゃうんだから」
クスリと笑い、二人は口付けを交わした。
彼女との静かな時間は続いている。僕は彼女の過去を知りたいとは思わない。
気にならないと言えば嘘になるけれど、無理して問いただすこともない。
知らなくても良い過去はある。
「いつまでやっているつもり?」
目を開けると彼女が目の前にあった。こちらを覗き込んでいる。
「ちょっと考え事をしていてね」
「ふぅん。珍しい」
「そんなことはないよ」
明日も彼女のために祈りを捧げよう。僕の幸せは彼女と共にある。