Wish
冬
「渋滞、凄いなー」
軽自動車の運転席の後ろから、前の座席を覗き込んで航が笑う。運転手は姉だ。夏休みに父の実家へ家族で帰ったその復路、避けたつもりの渋滞に巻き込まれてしまった。
「お母さんがグズグズしてるからや」
父が、助手席からミラー越しに自分の後ろに座っている母に言う。
「そやかて、お義母さんが“あれも、これも”て渡さはるさかい……。断る訳にいきませんやろ?」
「“ええ嫁”やから?」
運転席から姉が笑いながら言う。
「“ええ嫁”やないのよ、実際。こんな綺麗な娘と良う出来た息子産んだんやさかい。……なぁ?」
母が、微笑む。
渋滞の高速道路。進まない車の中は、それなりに楽しかった。
「でも、晴れて良かったな」
若葉マークの姉の運転する高速道路。晴天は何より心強い……?
「航っ! どーゆー意味!?」
「姉ちゃん、運転荒いから、雨降ってたらスリップしまくって、俺等、命幾つあっても足りひんなぁ……って」
「ホンマやな!」
息子の言葉に父が豪快に笑った。その横で、
「雨やったら、お父さんに運転してもらうもん!!」
姉がぷぅと頬を膨らます。
そう、前日まで台風の影響で豪雨だったのだ。文字通りの台風一過で、今日はすこぶる晴天である。
「それにしても、進まへんな……」
「ホンマになぁ」
首を伸ばして前を見る両親。その横で大あくびの航。
「お祖母ちゃんとこで、夜更かしばっかりするさかいや」
クスクスと笑いながら、母が息子の頭を肩へと抱え込む。
「ちょっと寝ときよし。サービスエリアに着いたら起こしたげるさかい」
うん。と頷き、航は母の肩で目を閉じた。
―――――――――――――――
けたたましい衝撃で目が覚めた。
……覚めた……筈だ。なのに、目は開いているのに、周りが見えない。
「……姉ちゃん……」
全身が痛い。
「……お父ちゃん……」
もの凄く、狭い。
「……お母ちゃん……」
息が、辛い……。
「……航……」
「航……」
「無事か……?」
家族の声がする。
「ここ、どこ?」
自分が寝ている間に、どこかへ移動したのかと思い聞いてみる。
「昨日の雨で、横の崖が……崩れたらしい……」
父の声が聞こえた。
「車ん中なん?」
航の問い掛けに、
「そうえ……」
今度は母の声だ。
「咄嗟に引っ張ったさかい、痛(いと)うない?」
「うん」
頷き、自分が座席と母の身体の間の隙間にいる事が分かる。そして、姉の声が聞こえない事に気付く。
「姉ちゃん?」
姉への呼びかけに
「大丈夫や、俺の下におる」
父が答える。
「お前の声が聞こえて安心したんやろ。気ぃ失いよった」
弱々しい父の声。
「ホンマに、大丈夫なんか?」
恐る恐る聞いてみる。
「……大丈夫、や……」
父の返事に頷く航。ふと、頬の辺りがヌルッとした気がして、狭い中、やっとの思いで手を動かす。
「……血……?」
狭くて首を動かせない。
「……お母ちゃん……?」
手に付いた血を見て、自分のものなのか……それとも、母のものなのかと首を傾げる。
「ジッとしといない。お母ちゃん、ずっと、ここにいてるさかい」
いつもと変わらない優しい母の声が聞こえる。
(……って事は、これは、俺の……?)
「すぐに、助けが、来る……」
父の声が、尻すぼみに聞こえなくなった。
「お父ちゃん!?」
振り向きたくても動けない、もがく手に、何かが当たった。
「しっかりしよし」
母の手だ。震える航の手を強く握り締めてくる。
「泣きなや。男の子やろ?」
母の手を握り返しながら、黙って頷く航。
「少しの辛抱や。航、我慢、出来るな?」
「うん……」
母の声が、
「……ええ子や……」
途切れた。
シンと静まりかえった車内は、恐ろしく暗かった。握ってくれている母の手の力が抜け、今度は航が力を込める。
(約束した。……泣かへん……って!)
やがて助かった時に、みんなに自慢するんだ。泣かなかった。怖くなんかなかった。だから……。
ふと、母の手の感触が変な事に気付いた。温かかった手が……。柔らかかった手が……。
「……お……母ちゃん……?」
強く握り過ぎたのかと少し手を緩めてみるが、冷たく硬くなっていく手は変わりはしない。緩めた事で離れそうになった手を慌てて握りなおす。
「……お母ちゃん……。……返事、して……」
母の手を自分の方へと引っ張りながら声をかける航。出血の所為だろうか、頭が痛い。
「……なぁ……、お母ちゃん!」
しかし、返事は返ってこない。
「……お母ちゃんっ!!……」
遠のく意識の中、どこからか、家族の呼ぶ声がした……。
「航っ!」
「航くんっ!」
聞き覚えのある声で、航は目が覚めた。
「大丈夫か!?」
慎太郎と、
「凄い汗……」
木綿花が、そこにいた。
「うなされてたぞ。本当に大丈夫か?」
心配そうに覗き込んでくる慎太郎を見て、航が慌てて頷く。
「何の夢みてたの?」
枕もとのタオルで、航の汗を拭きながら問う木綿花に
「バカ!」
慎太郎が舌打ちした。
ハッと気が付き、小さな声で「ごめんね」と謝る。そんな木綿花に首を振りながら、メモとペンを探す航を
「書かなくていいから、寝てろっ!」
慎太郎が肩ごと押さえ込む。
「お前が休んでるからって、プリント、預かって来たんだよ」
と、プリントをカバンから出し、ひらひらと揺らしてみせる。
「本当は石田が持ってくる筈だったんだけどさ」
“石田”というのは、以前、航を囲んで質問攻めにしていたメンバーの一人だ。あの後、自分達のした事の無遠慮さに気付き、三人揃って謝りに来た。
「あいつもダウンしてんだって」
授業の進み具合が書いてある手書きのプリントを航に手渡して、
「お前のクラスだけだぞ、インフルエンザが蔓延してんの!」
慎太郎が呆れたように言い捨てた。
「だから、俺が頼まれたの。石田の分と、お前の分」
面倒くさそうに不貞腐れる慎太郎の横で木綿花が笑っている。
「“やだ!”って言ったのよ、先生に! 小学生じゃあるまいし……。ねぇ?」
「石田ん家なんて、回り道にしかならねぇじゃん!」
「通りひとつだけでしょ!?」
バカよねぇと航に笑顔を向ける。と、心配そうに自分を指差している航が目に入る。
「“堀越ん家だけじゃダメですか?”って」
そんな航に気が付いた木綿花が慎太郎をチラリと見て、耳打ちしてくれた。
途端に笑顔になり、航が慎太郎の袖を引っ張る。
「何? “面倒”に自分も入ってると思ったのか?」
慎太郎の言葉に航が大きく頷く。
「お前ん家は通り道じゃん」
(それだけ……?)
ちょっとガッカリする航。
「仲のいい奴ん家ならこうやって持って来てもいいけどさ、そうでもない奴ん家って、親が出てきても対応のしようがないから、苦手なんだよな……」
やれやれと溜息をつく慎太郎を見ながら、航がニコニコとまた笑顔になる。そして、そんな二人を見比べて、クスリと木綿花が笑った。
遠くでサイレンの音が聞こえた。
「息がある!」「生きてるぞっ!」「もう、大丈夫だ、安心しなさい」