猫と二人- two persons with cat -
猫といえば、今日の休憩時間中に、会社の先輩と猫の話をした。
普段、その先輩が積極的に美樹田に話し掛けてくる事はない。仕事
中は勿論の事、休憩中も声を掛けられた事はない。基本的には寡黙
な先輩なのだ。
その寡黙な先輩は八つ年上で、確か、奥さんと小学生の息子がい
た。これは本人から直接聞いたわけではなく、話し好きの他の先輩
から聞いた話だ。話のネタとはいえ、他人の家族構成を本人がいな
い場でいうのはどうだろうか、ともその時には考えた美樹田だった
が、そのお陰でスムーズに、グリスを塗ったギアのように、多少な
りとも円滑に話が出来たわけだから、世の中、何が役に立つ情報な
のか分からない。
ともかく、そういったほぼ面識ゼロといった先輩が、何故か今日
に限って美樹田に話し掛けてきた。それも、昼食の時間だったので、
休憩時間もたっぷりとあった。特に嫌ではなかったが、意外である
事に変わりはなかった。
何の話をしたのだろうか。猫の話題だった事は覚えているが、細
かい所は既に消えかかっている。煙草の煙を眺めながら、美樹田は
記憶を探る。
確か……、息子が猫を飼いたがっている、とかそんな話ではなか
っただろうか。……そうだ、美樹田はそれで以前実家で猫を飼って
いた事を話した気がする。焦点を煙から目の前にいる猫に移す。先
輩に引き渡すというのも、一つの手かもしれない、などと考える。
煙草が短くなってきた。時間にして約三分強は立ったままだろう
か。建物から出てきた所から計算すれば、大体十五分くらいは同じ
姿勢のままだ。煙草の火を靴底でしっかり消す。完全に消えている
事を確認すると、後で車内の灰皿に棄てる為に握り込む。例え誰も
みていなくともポイ捨てはいけない。几帳面なので、ルールを守る
事など当たり前な美樹田だ。
結局、煙草を吸っている間に行き着いた結論は強攻策しかなかっ
た。最初からこれが確実な方法であったが、そんな事は煙草を吸っ
ている間に忘れてしまった。出来れば穏便に済ませたかった美樹田
だったが、こちらの動きを相手が察しない以上、それはもう直接的
な方法に頼るしかない。原始的だが、確実な方法の一つといえる。
しかしそこは猫と人間、具体的な方法を挙げれば、軽く手で払い
のけるか、持ち上げて下に降ろしてやるかのどちらかだ。仮に、息
子が猫を飼いたがっている、と美樹田に話していた先輩に引き渡す
にしても、ここから動かさない事には始まらない。動かさなければ、
美樹田も帰る事が出来ない。これが最も切実な問題だ。否、構わず
車に乗り込み、小動物など歯牙にも掛けずに駐車場から出してしま
えば、帰るだけなら簡単だ。けれど、出来れば穏便に済ませたい。
仮に、万が一にでも轢いてしまったら、数週間は後を引くだろう。
一歩近づく。猫は動かない。
二歩近づく。耳と尻尾だけ動かす。こちらに気付いては、いるよ
うだ。
さらに数歩近づく。手を伸ばせば触れる事の出来る距離だ。手を
伸ばしても、猫は視線を美樹田に向けるだけで、動こうとしない。
猫の身体に触れる。違和感。
「あぁ、そうか。そういう事」
猫を持ち上げた美樹田は、違和感の正体を掌で感じた。
猫は前足の脇の下に怪我をしていた。持ち上げる為に触った時、
手にべっとりと血が付いた。すぐに持ち方を変え、抱える形に猫を
持ち上げると、猫のいたワイパー付近にも血が付いているのを確認
する。幸い、フロントガラスには血が付いていない。猫の顔を見る。
最初は分からなかったが、よく見ると、額に幾つか白い斑点のよう
な模様があるのが分かる。目が合う。最初は太々しく見えていた顔
も、今では助けを求めているような顔に見える。この一瞬で随分と
印象が変わるものだ、など考える。
「さて、どうしたものかなぁ」
美樹田は思わず声に出していた。困った、これが正直な感想だっ
た。ただ、何に困ったかと言えば、怪我をした猫を発見してしまっ
た事か、車に血が付いた事か、それとも、現在進行形で服に付いて
いる毛か、もしくはその全てか、判断はとても難しい。
美樹田は煙草を吸いたかったが、腕も負傷した猫に塞がれている
ので、自由に煙草も吸えない。困った。いやいや、困っているのは
この猫も同じか、と感じて猫の顔をもう一度見る。うにゃ、と一鳴
き。あまり締まりのない声だ。
美樹田は軽く溜息をつく。肩の力が抜けると同時に、諦めの感情
が並々と湧き出てくるのを感じた。これだから、猫はあまり好きに
なれない。
作品名:猫と二人- two persons with cat - 作家名:フジイナオキ