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バールのようなもの
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novelistID. 4983
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その商店街にまつわる小品集

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七.夜泣き詩人


その商店街には、一風変わった屋台もよく現れた。そのうち、一番印象に残っているものの話をしようと思う。

僕はその夜、一人で散歩に出ていた。
秋と冬の境目くらいの季節だった。布団に入ってもなかなか寝付けず、いっそ身体を動かした方が眠れるかもしれないとジャンパーを羽織って外に出たのだった。
商店街はすっかり眠りについていた。いつも遅くまで店を開けているランプのアトリエさえシャッターを下ろしている。光っているのは寒々しい外灯だけだ。

知らない町に迷い込んだような、なんだかひどく寂しい気持ちになった。
缶のココアでも買って飲みながら帰ろうと思った時。まっすぐ伸びた商店街の道の向こうから、キィ、キィとブランコを漕ぐような音が聞こえた。
音の方向を向くと、小さな光がゆらゆら揺れているのが見えた。
その点は音と共に近づいてくる。しばらくしてそれが、カンテラを吊るした自転車だと気づいた。
自転車は僕の立っている場所からおよそ5メートル手前で減速を始め、目の前に停まった。ブレーキと錆びた車輪がキィィィと高く鳴いた。
自転車に乗っていた小柄な人物は、サドルから降りてスタンドを下げた。目深に被った帽子のつばをクッと上げてこちらを見る。カンテラに照らされた顔は、化粧っ気のない若い女性のものだった。
「お客さん?」
ぶっきらぼうに言われ僕は咄嗟に言葉が出なかった。客かと問われても、何の店かも分からない。自転車にも、ヒントになるようなものは何も描かれていなかった。
彼女は僕の言葉を待たずに、荷台に積んだ箱を開けた。木でできた岡持ちのような、縦に長い箱だった。
彼女がカンテラを持ち中を照らすと、白い封筒がびっしりと棚に収まってるのが見えた。
「何もついてないのは百円。赤い紐がついてるのは三百円」
彼女はそう言うと、ん、と顎を突き出した。商品を手に取ってみろということらしい。
恐る恐る、封筒を一つ抜き出す。
真っ白な封筒には「“旅人の夜の歌” ゲーテ」とだけ書かれていた。
別の封筒を見てみる。今度は「“秋の夜空” 中原中也」。
どうやらこの封筒の中身はすべて一篇の詩、それも夜に関する詩が収められているらしい。
ほとんどが裸の封筒のなか、いくつか赤い紐がリボンのように結ばれている封筒があった。一つ手に取ってみると「“やさしい夜” 山口紀美子」と書かれていた。
それまでに手にした封筒に書かれていた名前は、詩に明るくない僕でも分かるような有名な詩人ばかりだったが、初めて知らない名前が出た。
僕は彼女に、どんな作風の詩人か尋ねてみた。
素っ気なく、
「あたし」
という答えが帰ってきた。

結局僕は、彼女が書いたというその詩を買った。小銭を渡すと、彼女はニコリともせず「毎度」とぶっきらぼうに言って、荷物を片付け、また自転車に跨って走り出した。キィ、キィと遠ざかって行く小さな灯りを僕は見送った。

彼女の背中が見えなくなると、僕は赤い紐を解き、封筒を開けてみた。
四つに畳まれた紙には、こんな詩が綴られていた。


 夜はやさしい
 虫や獣にやさしい
 光が苦手な者達のために太陽を隠してやる

 夜はやさしい
 悪党にもやさしい
 闇に紛れて盗みをする手助けをする

 夜はやさしい
 死神にもやさしい
 生き物の熱を奪って命を弱らせる

 夜はやさしい
 芋虫にも鯨にも
 聖者にも悪党にも
 生きているものにも死んでいくものにも
 すべてのものに分け隔てなく

 だから恐れなくていい
 扉に鍵を掛けて
 温かい布団を被って
 やさしい夜に包まれておやすみ


それから家に帰る間、その言葉が静かな音楽のように頭の中で鳴っていた。布団に横になった途端、寝付けなかったのが嘘のようにストンと眠りに落ちた。

僕はその封筒を薬箱にしまった。眠れない夜は、今でも取り出して読み返したりする。