だうん そのさん
もし、花月が不治の病で大金があれば手術できると言われたら、俺は、確実にやるだろう。昔は、ひとりだったから、そんなことはなかったが、今は違う。ふたりになったから、背負うものは半分になったけど、その代わり、何かあったら、ふたり分になる。
「バクダン小僧がおる限り、みっちゃんは大丈夫や。ていうか、おまえ、あれと所帯持ったから、今まで無事に生きてるんや。・・・・ええか? よそから引き抜きの話が来ても行ったらあかんで。」
「いや、俺は、すでにクビやって。」
「それはない、それはない。堀内が、ものごっついえげつなぁーい仕返しをしとるから、すぐに戻って貰う。」
「いや、あのな、沢野さん。俺、もうちょっとゆとりのある仕事を考えてるから。」
「ああーああー、それも心配せんでもええ。今度は、もっとしっかりした部下を用意するからな。仕事は、資金周りだけをしてくれたらええ。」
ぱくっと、綺麗な緑色の鶯を口に放り込んで、沢野のおっんは立ち上がった。それから、お茶を飲んで玄関へ歩き出す。
「ちょっ、ちょっと待て、おっさん。せやから、俺は辞めたんやて。」
「ははははは・・・・堀内が、おまえを手放すわけがないやろ。辞めたところで、堀内は諦めへんわ。まあ、みっちゃんが本社に来ぃひんのは残念やけどな。バクダン小僧は、みっちゃんには必要みたいやから、それは諦めたんやで、あの男。」
あはははは・・・と、笑って沢野のおっさんが靴を履いて、玄関から出て行く。慌てて、俺もツッカケを足にひっかけて外へ出たら、黒塗りのベンツが路上に止まっていた。
「堀内が、そのうち現れるから、それまでは遊んどき。ああ、せやせや、おこづかいやろう。それで、ゲーセンでも本屋でも、ソープでも、好きなことしとり。」
財布から抜かれた何枚かの万札を、俺に握らせると、文句を言う暇も与えずに、階段を軽やかに走り降りて、とっととベンツで消えてしまった。
・・・・・俺は、ガキか? ソープって・・・・・
まあ、そのうち、堀内のおっさんが来るのなら、その時に突き返そうと、ポケットにしまった。
・・・・やめれへんのかなあー・・・・・
あのおっさんが現れたということは、そういうことなんだろうが、まあ、話次第のことだ。どういう話になったとしても、俺のほうも時間的な問題が解決されない限り、辞めるつもりでいる。沢野のおっさんの口ぶりからすると、同業種なら使ってもらえる様子だから、それについては安心した。引き抜いてくれるなら条件は、つけたい放題だろう。
家に帰ったら、こたつの上に菓子折りがあった。甘いものが苦手な俺の嫁が、わざわざ、こんな箱モノを買ってくることはない。
「おかえり。」
「ただいま、誰か来たんか? 」
菓子折りを指し示して、そう尋ねたら、「ああ、沢野のおっさんが来たんや。」 と、こともなげに俺の嫁は答えた。
「誰や? サワノって? 」
聞いたことのない名前だ。
「元社長で、今は常務。一応、堀内のおっさんの上司かな。」
「はあー? 」
「とりあえず着替えてきたら、どないや? 話やったら、メシ食いながらでもええやろ? 」
今夜は刺身とアラ汁やで、と、俺の嫁がおっしゃるので、スーツをさっさと脱いで、ジャージに着替えた。うちは、食事中にテレビは見ないし、酒も、あんまり飲まないので、すぐに白メシと味噌汁が並べられる。金時豆が、箸休めにあって、刺身は鯛とマグロだった。
「なんで、イカはないんよ? イカ。」
「モンゴしかなかったんや。あれは硬いからな。」
「うわっ、このマグロ、めっちゃアブラあるやんけ。漬けでもよさそうやな。」
「そう言うやろうと思って、冷蔵庫に漬けにしたぁるから、後でお茶漬けしたらええわ。」
「おおーーさすが、俺の嫁。ツボを心得とるっ。」
ふたりして、適当な会話をしつつ、食事する。別に難しいことではなくて、世間話みたいものだ。しばらくして、腹がくちくなったところで、「それで? 」 と、俺は切り出した。
それだけで、先ほどの話だと、水都もわかる。
「辞められへんらしいわ。」
「え? 」
「沢野のおっさんが他へ勤めるくらいなら、そのままでおれって言いに来た。今度は、ちゃんとした部下もいれて、システムを変えるつもりらしい。」
「で? 」
迷っているのか? と、無言で尋ねる。その言葉に、俺の嫁は、「まあな。」 と、肯定した。
「定時上がりできるようにするって言いよった。それなら、それでええか、と、ちょっと思ったんやけどな。ただな、あのおっさんは口八丁手八丁で有名やから、どこまでが真実なんかが、今ひとつなんよ。・・・・・俺としては、花月の世話ができるくらいの時間は欲しいから。」
「いや、それは大変嬉しいんやけど・・・・できれば、おまえの世話をしてくれ。」
「それは、おまえの仕事やから任せるわ。」
死ぬまで生きていればいい、という考え方だった水都は、自分のことなんて、どうでもええと言い切る。とりあえずは、俺の世話をすることだけでも感心があるのは、壊れ具合が、幾分かマシになっているということだろう。
「堀内のおっさんが迎えに来るらしい。その時に話を聞いて、納得できる内容なら戻るかもしれへん。あかんかったら、引っ越す。」
「どこへ? 」
「おまえの職場の近く。家賃が安いとこに移ろ。それなら、俺もバイトするぐらいでええし。・・・・・正直、ちょっと怖いんよ。おまえのために金が必要になったら、俺は、なんかしそうやから。」
苦笑するというか、なんていうか、震えるように瞳を伏せて、水都は呟いた。現金を操る仕事だとは聞いている。例えば、俺が大病を患って、莫大な手術費用があれば治ると言われたら、自分は確実に金を盗むだろうと言う。
「なんで、俺が大病? 」
「いや、そういうこともあるかもしれへんやん。交通事故とかな。」
「なんで、俺を死ぬ目に遭わすんじゃ、このどあほはっっ。そんな心配はいらん。俺は、ちゃんと共済に入ってるし、健康保険にも加入してる。だいたい、この至極健康体の俺が病気なんかあるかぁーいっっ。」
ああ、こいつは、俺があって生きているのだと、その言葉に心が温かくなった。当人は気づいていないだろうが、俺には、熱烈な告白とも取れる言葉だ。ひとりにはなりたくない、と、水都は思っている。十年して、ようやく、その域まで、俺の嫁は達したらしい。
「せやねんけどな。なんか、ふと、そんなこと思た。」
「愛してるで、俺の嫁。」
「意味がわからへん。」
「いや、俺はわかってるから。おまえの深層心理に愛の告白をかましとるだけ。・・・・まあ、ええわ。おまえの好きにしたらええ。せやけど、今までと同じ仕事内容やったら、俺は反対や。それこそ、夜逃げするからっっ。」
仕事がイヤなら嫁を連れて、引っ越せばいい。今より生活が厳しくても、別に俺は気にしない。俺の嫁が、生きてるだけの状態でなければ、それでいい。