書評集
西村憲太「苦役列車」
この小説の主人公である貫多は、中卒であり、社会的なステータスをもたず、また友人も恋人もなく、人間関係的なステータスもなく、さらに自らの人間性に自信が持てず、人間的なステータスもない。彼に欠如しているのはバランスである。誰しもが何かに劣等感を持っているが、それを他の何かの優越感で補っているのだ。人間というのは、劣等感と優越感によって上手にバランスをとって、心の平穏を維持するのである。
ところが、彼には優越感を感じる材料がない。そこで、彼の落ち着く先となったのは、「苦役」に従事することによる自己確定である。つまり、劣等感をいささか誇大化し、自分の様々な属性を悪い方角からとらえ、そのようにして自分が優越感の甘い露を飲まないことにまさに自分らしさを見出し、そのような絶望的な状況で生き続ける(苦役をする)ことに、自分の居場所と安定を見出そうとするのだ。優越感が欠落した部分を、苦役によって、苦役に従事する己の絶対的な劣等によって、補完するのである。
そうすると、彼において生まれてくるのはある種の自由なのである。人の言葉に傷ついていい自由、人を見下してもいい自由、暴力を振るってもいい自由。自分は苦役に従事している最低の人間なのだから、本来低劣だとみなされている様々な人間の汚らしいことをやってもいいのだ、という自由が生じる。そして、この自由もまた、彼の欠落を埋める役割を果たしている。
だから、彼の行動に純粋さや真実が見えるのは、彼が苦役に従事することと引き換えに人間の素の暴力性を発揮する自由を獲得したことに由来する。我々は、些細なことに傷つくのは子供っぽいとか、人を見下すのは最低だとか、暴力絶対反対などと思っているが、そのような規範から自由であるところに、彼の人間としての純粋さや真実が宿るのであり、そこに我々は魅了されるのである。